龍口寺境内を歩く


  夏の終りの、日曜日の黄昏時に日蓮上人の法難の地である龍口寺の寺域をそぞろ歩くのが、数年来の慣習になっている。8月の27日、最後の日曜日に茅屋のある腰越の室が谷から、津の紆余曲折した裏道を選んでゆったりした足取りで、腰越と片瀬の境にある龍口寺に赴く。

  偶々この日は片瀬の諏訪神社の祭礼で、神社から繰り出して来た山車が、龍口寺の門前に集結する頃合いで、一基一基と西向きに整列するのであった。男女の子供たちの叩く太鼓の音で、如何にも祭りの雰囲気を盛り上げている。沿道には見物客が大勢いて、中には物珍しそうに、カメラにこの海浜のお祭りの風景をおさめているのは観光客であろうか、この辺りは普段なら江の電を撮る鉄道マニアをよく見かけるところだが、今日は山車や御輿にお株を取られた格好だ。

  山門を潜って一歩境内に入ると、山門前のお祭り騒ぎとは違って、蝉時雨が耳を聾する別天地、参詣客とも観光客ともつかぬ人影が二三あるばかり。

  日蓮上人は時の執権北条時頼に、内憂外患を予想し「立正安国論」を奏上したが、執権の逆鱗に触れ、斬首される寸前に天地を揺るがす雷鳴のため、奇跡的に一命を取り留めた。1271年9月13日のことである。このことでも判るように、ここは長らく刑場跡であった。

  境内の左手には、その後佐渡に島流しになるまで、日蓮が幽閉されていた格子の嵌まった土牢がある。その前に植えられている百日紅が、今を盛りと咲き誇っているのが目を惹いた。

  本堂の銅の屋根が緑青になり、その右背後に聳立する五重塔の緑青と境内を囲繞する濃緑に映えて、楚々とした百日紅の喩えようもない美し花の下にしばし佇む。

  亭々と聳えている銀杏、楠、樫、松等の数百年を閲した巨木に遮られて西に傾く斜陽は、境内どころか、本堂の屋根すら射さない。龍口寺に限らないが、暮れなずむ寺の境内に殊のほか心惹かれる。腰越や片瀬界隈は、腰越状の満福寺、密蔵寺等有名な寺が数多いことで知られる。特に龍口寺に魅せられるのは、その古い寺歴と本堂を取り巻く自然の美しさ、仏舎利塔からの眺望、全山の静寂さによるのである。

  この寺を初めて訪れる以前の四半世紀前に、当時懇意にしていた老歯科医から、龍口寺に入れ歯師の墓の存在を教えられた。本堂の脇の坂道を上って行く途中にある円筒の歯骨供養塔がそれである。湘南地方で長く診療にあたったその歯科医は、10年程前に他界したが、その脇を通って、全山で一番高い仏舎利塔に行く時、歯骨塚の脇を通るので、自然に老歯科医と親しく話した在りし日を想い出すのである。

  この歯科医には長男の歯科医がいたが、晩年には親子の確執が絶えなかった。そして最後には老父に長男が暴力を振ると言う抜き差しならぬ事態になってしまった。ところが、或る日その息子が頓死してしまう。直腸がんに冒されていた老歯科医は、久し振りに訪れた小生に言った。

  「こうして庭を眺めていると、毎日のように白い蝶が、私の前のガラス窓のところにやって来るんです。それが何だか息子の化身のような気がしてならないので、もういいと心の中で言ってやったんです。すると、翌日からは姿を見せなくなったんです」

  その歯骨塚の前に島村采女の墓がある。この島村采女と言うのは、龍口寺が創建される際に寺域を寄進したということで、その遺徳によって、本堂脇のところに埋葬されているのである。この島村うねめの末裔が、室が谷に今も住んでいて、我が家と懇意にしているので、仏壇に安置されてあるその采女の位牌と伝えられるものを見せられたことがある。

  腰越、津は古い村であったが、その村の遍歴を知る手がかりの一つに「島村文書」「金子文書」があったが、いまではその行方が杳として知られない。

  龍口寺は海岸に近い一種の谷戸になっていて、寺の境内にいると絶え間なく、山門に対峙している江ノ島の方角から涼風が吹いてくる。海岸などに海原から吹いて来る、強い潮風と違ってここまで来る途中で、塩分が風化して仕舞うかのような爽やかな微風なのである。

  境内にはベンチが散在しているが、それでなくとも腰を下ろして小憩する場所に事欠かない。境内を一巡して、ベンチに腰を下ろして、携えて来た江戸時代の漢詩人の詩集を紐解く。夕陽山上望方奇人界蒼蒼欲暮時 唯有水光分地脈 某州某郡可推知と詠んだ詩人は大窪詩仏、江戸で活躍したが、その晩年は女婿が藤沢の産であることから、藤沢に改葬された。墓は藤沢本町の藤沢第一小学校裏にある。

  しばし本堂と五重塔を仰望しその調和のとれた背景美は喩えようもなく見事な一幅の絵となって現われる。

  志賀直哉の小品に「鵠沼行」と言う作品がある。大正元年に発表したものであるが、一家そろって大人数で、鵠沼の「東屋」に行って、妹達と「東屋」の広大な庭にある池に舟を浮かべて遊んだり、庭続きの片瀬海岸の渚で遊んだりした一日を描いたものである。

  その帰りに、鎌倉に出る途中で、龍口寺に立ち寄るのである。その時志賀直哉と思しき順吉は、新しく出来た五重塔の横から皆が裏山に登るのを祖母と二人で登らずに待っている。そして初めて学習院の水泳で家を離れて、生活したので淋しくて毎日二本も三本も手紙を出したことを語る件がある。

  この記述から推すとこの五重塔は、今から90年位の歳月を経ている計算になる。どんな建築物でも、風雪に堪えて生き続けているうちに周囲の環境と渾然一帯になって、見る者をしてそれが自然な風景となって心を和ませるのである。

  順吉は「学習院の水泳で初めて来た時に、今はありませんがあの山門の右に法善房という小さな家があって、そこへ泊まっていたんです」と言う。

  今はそこは大書院になっているが、現在のこの偉容を誇る建物は、松平藩のもので松代から移築された由緒あるものであるが、見上げるほど高い屋根を覆う大きくて分厚い瓦は、一見に値する。近寄る者をして威圧するような重厚な建築物である。

  この庫裏の一室で国木田独歩が、「運命論者」を執筆したことがある。明治35年のことである。この作品は発表当時、どこも出版してくれる所がなかったが、窪田空穂の斡旋でやっと日の目を見るに至ったのである。年の暮れと言うこともあってこれで餅代が出来たと独歩は、空穂を徳とした。

  山門の前のところは細流があり、それがいつのまにか暗渠と化した。いつか土地の古老と称するひとにそのこと確かめたが、はっきりしたことは判らずじまいであった。

  その山門の前から江の電に乗って鎌倉に行ったと志賀直哉は回想しているところをみると、ここに江の電の停留所があったことがわかる。現在でも江の電の江ノ島駅と腰越駅は一キロ足らずである。以前は江の電の駅間はずっと短かく、現在の倍程の駅があったことが、古い江の電の地図を紐解けば判る。

  諏訪神社の祭礼が済むと夏も終りである。池上本門寺のお会式は10月13日であるが、龍口寺の法難会は9月12、13日である。この日龍口寺で雨が降ると、池上では晴れる、晴れると、雨になると言うようにいつも逆の現象が、起きると言う昔ながらの口伝がある。その龍口寺の法難会が済むと本格的な秋を迎えるのである。片瀬の海岸を歩めば、空の色、海の色、釣り人によってその秋の気配が感じられる。湘南の海岸は夏も秋も他の処より一足早いのである。

せいちゃん  
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