居酒屋「鍵屋」と斎藤緑雨


  下谷にあった江戸時代から続いていた「鍵屋」が、道路の拡張整備のため移転をよぎなくされ、郊外に移築したということは知っていたが、ひろさんの「江戸東京たてもの園」の写真入りで紹介されているのを見て、30数年前に昔の場所にあった頃をふと想起した。

  この「鍵屋」の開かずの金庫には、明治時代の評論家で小説家、斎藤緑雨の酒債の証文が保管されていると伝えられていることは、知る人ぞ知る。筆は一本、箸は二本と言った斎藤緑雨と同時代の樋口一葉も、母と妹を抱えて、筆で糊口をしのぐが、思うようにならず、陋巷に貧窮の中に夭逝するのであるから、緑雨が馴染みの居酒屋に酒債の証文があっても不思議ではない。

  斎藤緑雨の代表作には「かくれんぼ」、「油地獄」、「門三味線」、「あられ酒」があり、風刺と諧謔に長じた評論、随筆を多く残した。しかし生来の蒲柳質は病に付きまとわれ、貧苦の一生であった。父親死後は、一葉が母親と妹を扶養しなければならなかったと同様に、緑雨も父亡きあと母親と弟達の面倒を見なければならなかったという境遇は、互いに親近感を持ったであろう。

  私が初めて「鍵屋」に繰り込んだ日は、朝顔市の日であった。時代劇のセットでもあるかのような古風な建物だった。一歩中に足を踏み入れた途端、まだ東京にこのような時代離れをした居酒屋があったのかといった雰囲気であったのが印象的であった。

  カウンタ−の中には自在鍵に鍋がつるさがってあり、歳月を閲したかのように黒光している太い柱に八角時計が掛っていた。入って左手の奥には小部屋があって、そこにも酒客が、腰を据えて飲んでいる。例の大きな金庫が左奥に鎮座している。相客も中年が殆どで、静かに酒を味わうといった感じの客で占められていた。品書きも勘亭流で書かれていて、値段も手ごろである。ここに来て、まず口にするのが味噌おでん。

  その日はアメリカ人で日本文学の研究家のサインデインステッカ−が、独酌していた。彼は当時アメリカの大学で日本文学を講じていたが、一年の中、半年は日本にいて、文京区のマンションで源氏物語の英訳に専念していた頃である。

  源氏物語の英訳は1933年にイギリス人のア−サ−ウエリ−がThe Tale of Genjiとして完成し、世界中に初めてその存在を知らしめたのである。正宗白鳥は原文の源氏物語を読んだことはなかったが、英訳で通読したと記しているが、なにやら象徴的な話である。独学で日本語を研究したウエリ−のその功績は大きいが残念ながら抄訳である。だが、サインデインステッカ−のは全訳。そのために10年の歳月を要した労作である。

  「鍵屋」は、サイデインステッカ−に限らず、親日家で酒好きの外人の間では夙に 知られていた居酒屋である。

  その斎藤緑雨が臨終に際して、友人の馬場弧蝶に樋口一葉の日記の公刊を依頼するのである。一葉が24歳で死去した後、生前の日記は焼却されたと一般には思われていた。緑雨が一葉の生前に親交があったことやその誠実な人柄と一葉亡き後も樋口家になにかと世話をしたことから、一葉の妹邦子が緑雨にその日記を託していたのである。

  だが、緑雨は新聞社に籍を置いているとはいえ、当時の新聞社は発行部数が現在とは雲壌の差であり、規模も小さく離合集散で、俗事にまみれて責めを果たすにいたらないうちに歳月が過ぎて行った。

  当時の新聞は数ペ−ジであり、記者の給料も遅配がちであったから、緑雨は生活不如意であった。ある時竹馬の友の国語学者上田万年に無心の手紙を出した。あまり度々であったので、なにも書かれていない白紙で上田万年に出したのであるが、万年は、緑雨の苦衷を察したと娘の円地文子が書いている。

  樋口一葉の日記を自分の手で上梓しなければと思いつつ、緑雨は37歳の生涯の終焉を迎えることになってしまった。その後露伴らの尽力で、一葉の日記が日の目を見るのである。そしてこの日記が近代文学上の三大日記の一翼を担うことになる。「にごりえ」「たけくらべ」「十三夜」の名作と共にこの日記あるが故に明治時代の代表的閨秀作家に列することになる。

  緑雨は森 鴎外、幸田露伴と共に「めざまし草」を出し、その中の三人冗語で、当時の作品の批評をした。一葉の「たけくらべ」がここで激賞されて、一葉の文壇での地位は確立した。

  緑雨の諧謔、警句、毒舌は当時の作家や評論家の間でも評判で、文壇の一角を占めていたのであるが、鴎外や露伴のようには当時も今も読者を得る事が出来ず世俗的には不遇な作家といえよう。

  緑雨はある時、親友の馬場弧蝶に身の上話をした。

 それは風の吹く寒い晩のことである。駒形の鰻屋「前川」で鰻を食し、微薫を帯びで店を出た。そして店を出て浅草寺の方に歩いている途中で、小さい頃、家が貧しかった話をした。

  「ある時こんな事があった。色鉛筆がほしくて、母に色鉛筆を買って欲しいと言ったところ、母は観音様に行くついでに買ってくると出かけて行き、帰りに、みやげとして色鉛筆を買ってきてくれたのだが、見ると母がいつも頭に挿している簪がなくなっている。それは、母親の形見だからといって、母が普段から大事にしていた銀の簪であった。

  それ以来、母が色鉛筆を買いに観音様へでかけた日を記念日として、毎年その日に観音様に詣でることにしているのだ、実はその日が今日なんだが、、、、これから観音堂に立寄って、母の恩に感謝してから帰ろうと思う。今夜は寒い晩だが、わるいが一緒につきあってもらえないだろうか」と言われて孤蝶も同道するのである。

  明治31年の暮れのことである。

  その2年後の明治33年9月に緑雨は宿あの結核の静養を兼ねて、鵠沼の割烹旅館「東屋」に約8ヶ月余り逗留する。

  この「東屋」が有名になるのは、芥川竜之介、岸田劉生、宇野浩二、大杉 栄らが大正時代に逗留してここで執筆し、作品を発表したからである。

  斎藤緑雨はそれ以前に来ているのであるが、その頃は、もはや作品を生み出す体力がなく、東京で同輩や弟子筋にあたる小杉天外らが話題作を書いて注目を浴びているので、焦燥感が募るばかりであった。この間の苛立つ心境が日記にしるされていて切歯扼腕している緑雨の無念の姿が浮き彫りに描かれている。

  ここの仲居をしていた金沢たけが、半ば押し掛け女房のような形で一緒になり同棲をする。この年まで無妻を通した緑雨は、女を捨てるべきか否かの問題にも苦悩するが、たけはその後緑雨に添い遂げ、最後に見取ることになるのである。

  たけの実家のある小田原に転居後、再び東京に帰って来たが、病床に臥す日が多く、生活は苦しくなるばかり、病躯を押して、幸徳秋水の平民社に援助を求めたりした。時折見舞う幸田露伴は、そっと蒲団の下に鼻紙になにがしかの金を包んで、この悲運の友人を慰めた。緑雨はその後姿に手を合わせて涙を流していたという。

  緑雨は死の直前に、勤めていた新聞社にその死亡広告をだすよう依頼した。その広告文は次の通り。「僕本月本日を以て目出度死去仕候間此段広告仕候也 四月十三日 緑雨斎藤賢」

  その臨終の直前には、看護する人たちをも別室に退けて一人で死に旅だったと言う。これまた緑雨らしい最期である。

  訃報に接して駆けつけたのはわずか数人の昔の作家仲間だけであった。翌朝5時に棺は駕籠にのせられ、親類の者4人と幸田露伴、与謝野鉄幹、馬弧胡蝶に囲まれて、横網町の自宅から、日暮里の火葬場に向かった。明治38年のこの日は日露戦争で、緒戦で勝利し、日本中が熱狂の渦の中にあった。

  4月16日の葬儀には、露伴の弔詩と鉄幹の弔辞が述べられた。よく弔辞の名文として横光利一が死去した日、その枕頭で書いた川端康成が引き合いにだされるが、鉄幹のこの弔辞は、緑雨の朽ちない文章、剛直な性格、謹厚にして温情の人となり、不治の病を持ちながら一管の筆で奇警犀利の鋭鋒を揮ったことを称えたもので、明治時代の最も優れた弔辞の一つと言っていいであろう。

  私は鎌倉から、教室のある辻堂に毎日通っているが、その途中の鵠沼には今も「東屋」はある。だがその規模は、緑雨らが逗留していた頃には一万坪あった旧東屋は何十分の一と縮小されていて、往時の面影は伺えない。旧「東屋」が、何故大正時代の文士や芸能人に人気があったかというと、その料理が美味しかったことと経営者の長谷川欽一が、芸術に理解があったからだという。

  斎藤緑雨は明治元年に、三重県鈴鹿で生まれたが、父親が藤堂老候の侍医として上京したので、本所(墨田区)の緑町の藤堂邸内に幼いころから居住した。父親は一時本所避病院に勤務したことがあった。

  私の祖父も明治元年生まれで、やはり同郷の出身である。若い頃上京して、本所にト居し、そこで77歳の生涯を終えた。没後27回忌の折り、墨田川べりの「前川」でごく内輪で、精進落としをしたことがあった。幼い頃、墨田川をわたって、祖父の御供をして、浅草に来たものであるが、近年はとんと浅草に足を向けることがなくなってしまった。私の母は私が赤子のころ、赤痢にかかり、この本所避病院に隔離されたことがあり、危うく一命を取りとめたがその後は91歳の現在に至る迄入院する程の病気をしたことはない、一病息災といったところであろうか。

  明治12年にコレラが発生して、この本所避病院は日清、日露戦争の死者より多い10万人が死亡したと記録にあるが、本所避病院はその時に建設されたのであり、現在も同じ場所に都立墨東病院として存続している。往時茫々といったところである。

せいちゃん  
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