蔵王山を挟んだ歌人と詩人


  先日、民謡研究家で、多年NHKの民謡の解説をしている竹内 勉さんから、工藤翁がこの5月20日に逝去したとの訃報を伝える手紙が届いた。

  工藤翁と言うのは、享年105歳で天寿を全うした元早稲田大学の英文学と宗教学の教授、工藤直太郎のことである。恐らく早稲田大学の教授だけでなく、卒業生の中でも最も長寿であった人と言えるかも知れない。

  工藤直太郎は、工藤好美と共に年配の英学生には、懐かしい英文学者である。竹内さんはその臨終に立ち会われただけでなく、喪主に代わって郷里、山形の東光寺での葬儀、49日の法要、永代供養を取り仕切ったのであるが、竹内さんとの交流は7年で終止符が打たれた。

  百歳にして再び、今度は学者としてでなく、一歌人として人生の先輩として人間の生き方、身の処し方等を竹内さんの番組を通じて語り、ラジオの民謡フアンに広く知られるようになった。

  工藤翁と竹内さんが親交を結んだのは、竹内さんの担当している民謡のリクエスト番組に、工藤翁が投書したことに端を発している。当時99歳の工藤翁は、年と共に故郷山形の民謡に郷愁の念止み難く、電波を通して聴きたいことから、初めて希望曲をしたためたのであった。そして「いのちあれば、この世、なければあの世でききます」という白寿のリスナ−の名文句が、竹内さんを痛く感歎させた。それで「真室川音頭」「新庄節」「最上川舟唄」を氏一流の解説つきで放送し、工藤翁のリクエストに答えたのである。

  高齢化社会で現在日本には百歳以上の長寿が6、7千人いると言われるが、工藤翁のように自分の文体を持って、自己を表現するとなるとまず無理であろうとの観点から、竹内さんは定期的に小平に住む工藤翁を訪問をした。その時の二人の会話と往復書簡を基にして一冊の本にまとめたのが「生きてごらんなさい 百歳の手紙」(本阿弥書店 1955年刊)なのである。

  工藤翁は、明治27年生まれで、義務教育が6年に変った最初の小学生である。家は日本三大急流の一つ最上川の碁点を基地にして、祖父が回船問屋を営んでいて家運が隆盛であった。

  村山地方の産物、米、雑穀、織物,絹糸、麻糸、紅花などを数隻の舟で、酒田湾を下り、帰航は鮭、鱒、塩鱈、数の子等の海産物及び遠く京阪地方の雑貨類を積載して、村山地方に売り捌いていたのである。

  明治32年頃に官営奥羽線が最上川対岸の楯岡(現村山市楯岡)まで延長したので、輸送交易が半減したのを機に父親は家業を廃した。

  工藤直太郎はエジンバラ大学に学ぶなどして、滞欧8年後に母校早稲田大学の教壇に立ち、アララギ派の歌人としても歌を数多く詠んできた。郷里山形の叔父の家には、上山出身の斎藤茂吉も何度か訪れたことがあったり又会津八一は恩師でもあることから、この二人に対して終生敬愛の念を懐き続けた。

  和漢洋に通じた博識の工藤翁は、昭和36年に随筆集「武蔵野のほとりで」を上梓しているが、その中にひとりしずか(一人静)と言う一文がある。今その後半の部分を採録すると。「、、、、、、漸く彼岸を迎えるころになると、暖かさを増してきた陽の光をうけて、地下の宿根も動き出し、麻糸のように乱れた枯れ草の中に鮮やかな緑がまじっているのをみる。武蔵野の草のさきがけは、ひとりしずかである。別にまゆはきぐさともいう。眉を刷いたように白色の細かい花をつけるからだという。せんりょう科に属する多年草で、茎は20センチメ−トルぐらい。頂きに楕円形の四つ葉を輪状につける。

  亡くなった私の父は、どういうものか、この草が好きで、よく花活けにさして眺めていたことを覚えている。亡父の命日は、丁度ひとりしずかの花が咲く頃なので、私は毎年付近の森の中からこの草を探してきて、仏壇に供えることにしている。しかし、ちかごろは森も大方きり払われて、人里離れた奥山にでも行かぬ限り、なかなか採取が難しくなった。この草をよしのしずかと呼ぶところもあるらしいが、私はやはり、ひとりしずかの方が、早春の武蔵野にひとりかくれて咲いているこの花のもつ淋しさを伝えていると思う」

  国木田独歩が、「武蔵野」を上木したのが明治34年であるが、工藤翁が「武蔵野」の一隅にト居したのは昭和の初期である。森林に囲まれたものさびた武蔵野の里で、人家は森と畑をへだてて、点在する百姓家があったきりで、雑木林には武蔵野特有のかまずみやななかまど等が鬱蒼と茂っていて、その下草を分けて、いたちなどが走って通ったと言うから、独歩の頃とは変わっていない風景が展開されていた。

  それが昭和30年代になると、次第にかっての「武蔵野」が変貌して、ひと里離れた奥山に赴かないとひとりしずかを採集出来なくなってきたと言うのである。

  工藤翁は子供の頃はそれ程勉強に熱心でもなかったが、父親はこれからの時代は、学問を身につけなければならないと言って、進学を勧めた。商家の親は昔は、学問にそれ程重きを置かないのが慣習であるが、叔父や父親の説得で学問の道に進むことが出来たことは、工藤翁は後年感謝の気持が強かったに相違ない。

  工藤翁は、一時健康を害して東京を離れ、郷里山形で静養していた時に、今は亡き姉を追慕して「蔵王山の青根のいで湯目によしと 目を養いし姉はいま亡し」を詠んで、朝日歌壇で首位に選ばれたことがあった。

  工藤翁が小学生の頃、病気がちの母親に代わって、弟達の着物の繕いなどに夜更けまで、針仕事をしてひどく視力を害して、蔵王山の麓にある青根温泉に一ヶ月ばかり湯治した。その折母親に手を引かれて、たか湯の峠を越えて山麓の青根村まで歩いていって、姉を見舞った。姉は大変喜んで、帰りに名産のこけし人形を買ってくれた。その頃姉は19か20で結婚前であったが、最後まで目が弱かったと言う。

  数年前、愚妹が、青根温泉で行われた中学校の同窓会に出席し、45年ぶりに学友と再会し、旧交を暖めた。妹も私も、終戦の年の、昭和20年の4月に家族で、伯母を頼って宮城県の大河原と言う町に疎開した。

  愚妹は久し振りに逢った恩師や旧友から「兄さんはどうしている」と何人からも聞かれたと、帰って来てから教えられた。

  半世紀を経ても、なお記憶に留められていたと言うことは、東京からの疎開の転入生だから、印象に残ったのであろう。自分の心の中では、大河原が第二の故郷と思って来たが、この言葉によって地の者の仲間に入れられていたような気がして嬉しかった。

  昭和20年3月10日の空襲で生家が灰燼に帰し、一家で知らない土地で生活を強いられたが、あの美しい山河に囲まれた町で、多感な青少年期を過ごしたことは終生忘られぬ思い出となっている。夏は白石川で、蔵王山を仰ぎ見ながら泳ぎ、秋には山に入って栗を拾い、稲の実るころにはイナゴを取ったり、春には田植えをしたり、桑畑で桑の皮を剥いだり都会ではしえない体験をした。それに町の周辺は見渡す限りの水田で、整然と植えられた早苗時の美しさ、稲穂の垂れる収穫時の豊穣な金波の光景は、子供ながら美しいと感じたことだった。

  ここは仙南切っての米所であることから、戦後の飢餓の経験をしないで済んだことは幸せであったと言わなければならない。その頃は農林一号の全盛期で、新米の光沢と言い、特有の味覚と言いそれを凌駕する米にそれ以後遭遇しない。正にぎんしゃりとは言い得て妙である。

  その町の真正面に青麻山とその背後に蔵王山が聳えているのである。そして駅前からは蔵王山麓にある遠刈田温泉、青根温泉、峨峨温泉行きの木炭バスが出ていた。しかし終戦直後で温泉行きのバスはいつも空いていた。これらの湯治場は、近郷近在の農家の人々が、農閑期になると、なべ、かまを持参して長期に逗留する鄙びた所である。農民達の骨休めであり慰安の場でもあったのである。

  ところが近年は近代的ホテルに立て替えられ、観光客やスキ−ヤ−の宿泊施設に変わっているという。今ではエコ−ラインが開通して難儀をせずに蔵王の登山が果たせるようになった。

  大河原に住んで知ったことは、この町の旧家には、山形出身の人が多いと言うことであった。それは、この町の西東にある川崎から笹谷峠を越えるのが、山形への最短距離なのである。従って江戸時代から人馬の往来が頻繁であったことがわかる。

  工藤翁の郷里の最上地方は全国屈指の紅花の産地であるが、この川崎周辺も紅花の産地で、仙台藩の紅花として京都で好評であった。しかし明治時代に科学染料が入って来て、衰退してしまったのは、工藤翁の村山地方と軌を一にする。

  この青麻山と蔵王連峰は、町の何処からも真正面に遠望されていて、東北線の車窓からでも、大河原駅周辺が蔵王の秀麗を眺めるには最適である。殊に桜の咲く四月中旬から下旬にかけて、蔵王の雪解け水が流れてくる白石川の堤に植えられている桜が、満開の頃は絶景の一語に尽きると言ってよい。だがその土手に植えられている桜を見ながら、花見の宴をしている光景は、私の大河原滞在中一度も目にすることはなかった。

  子供の頃、墨田川の堤のお花見に行った時には、大勢の花見客が堤を漫歩しながら、花見をしていたのを覚えているので、誰にも見られないで、見事に咲き誇っている桜が延々と見渡す限り続いているのが印象的であった。その桜の下を通りながら、大河原小学校、中学校に通った日のことが今も脳裏に焼き付いているのである。

  土地の者は初夏には白石川であゆ釣りが出来る清冽な川も、一目千本の桜も、毎日目にする蔵王の雄大な山容も見慣れているので、特に意識することはなかったかも知れない。

  大河原町の中央を流れる白石川に架橋したり、新田を開発したり、町つくりに貢献したりしたのが初代尾形安平である。尾形橋、尾形丁、尾形新田は尾形安兵に因んで命名されたものである。尾形家は藩政時代から続く酒造を業としていたが、明治28年に全国ではじめて酒の壜詰を考案して「梅が香り」として販売した。

  この尾形安兵の曾孫が、「色ガラスの街」や「障子のある家」で知られる詩人の尾形亀之助である。大河原小学校に入学するが、仙台に移住、その後、病気静養のため鎌倉の乱橋材木座に転居して鎌倉由比ガ浜小学校(現第一小学校)を卒業し、逗子開成中学、明治学院と移り、その後は仙台の東北学院で学んでいる。

  上京し、草野心平や高村光太郎らの詩人、彫刻家、画家との多彩な交友関係を持ち、在京中には父親の仕送りで優雅な日々を送った。当時のプロレタリヤ作家やアナ−キスト達は、懐の豊かな仲間の所に行っては寝食を共にすることが普通であった。亀之助も「金持ちのぼっちゃん」と言うことで、標的にされたふしもある。実家からの在京中の仕送りも多額の金額であった。

  仙台に引き上げる頃の東京の生活は、貧窮のどん底に喘ぐものであった。亀之助の晩年は戦争と重なる。文学者が日本文学報告会に参加して、戦争に協力する中で、おのれに囚われず、おのれを失わずに、純粋に詩人として生き抜いたことでもっと見直されてよかろう。

  祖父、父、亀之助三代の享楽と遊芸の生活で、初代尾形亀之助の残した膨大な家産を蕩尽した。江戸時代から、大河原は俳句の盛んな所であり、芭蕉が奥の細道の途次、ここに宿泊したことから、町の外れの韮神山の麓に芭蕉の句碑がある。祖父は蕉雨、父親は余十の俳号を持ち、余十は高浜虚子と長い交流があり、鎌倉の家に生前度々訪れている。

  大河原には初代尾形安平の公徳碑があるが、曾孫の尾形亀之助は、詩の世界で紙碑を建立した。その文学的特徴は遊びの精神と含羞の美学とされているが、もし亀之助がフランスに生まれていたなら、と惜しんだのは高村光太郎であった。

  晩年は仙台の郊外で、市役所の臨時雇員として貧窮の中に死去した。昭和17年12月のことである。生まれて42年振りに生まれ故郷大河原に遺骨となって帰ってきた。そしてこの大河原の白石川の堤のほとりにある繁昌院、通称「東の寺」に初代安兵らと共に永遠の眠りについている。高浜虚子は、亀之助の訃報に接し、大河原に行ったら、墓前に詣でたいと語った。今年は尾形亀之助の生誕百年にあたる。

せいちゃん  
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