笛田在住時代の山内義雄


 

  かれこれ一月前に、紫陽花倶楽部の例会で雑談の折り、大岩さんと、りっちゃんが話していた時、江戸川アパ−トと言う言葉が聞こえて来た。正直言ってこうした場で、同潤会江戸川アパ−トのことが話題に上ることに「おやツ」と意外な感じを受けた。

  同潤会アパ−トは、関東大震災後に大正14年に青山を皮切りに、深川、柳島、江戸川など13ヵ所に建設されたものである。建設当初は入居者に馴染めないのではと心配して警官や公務員が入居したが、そのうちに話題になり人気を呼んだ。4階ないし6階建耐震耐火の鉄筋コンクリ−トのアパ−トで集合住宅の濫觴である。

 「山内義雄さんは江戸川アパ−トに早くから住み、終焉の地でもあったんですよ」と言ったら、りっちゃんが「「チボ−家の人々」の、、、、、」と口を挟んだ。「そう、白水社の、、、」の言ったが、りっちゃんはお父さんの書棚にあったことを思いだして言ったのであろう。りっちゃんのお父さんが亡くなった時、勤めていた日本化薬に蔵書を寄贈したというから、読書人であったことが裏付けられる。

 「チボ−家の人々1灰色ノ−ト」は、昭和13年に白水社から出て「チボ−家の人々11エピロ−グ」が完結したのが昭和27年、それを機会に4冊本として刊行したのが一般に流布しているのである。

  このことがあって、笛田時代の山内義雄が急に思い出されてきた。笛田625と言う番地は長い間私の記憶の底に沈んでいた。山内義雄が鎌倉に大正の15年から昭和の11年にかけて住んでいたのであるが、ジ−ドの「狭き門」デユマの「モンテクリスト伯」が出版された時期にあたる。特に「狭き門」は山内義雄にとって最初の翻訳であり、愛着の強い書であった。また「モンテクリスト伯」は新潮社の世界文学全集にはいった。そしてこの全集は翻訳家達に未曾有の潤いをもたらした。

  小学校6年生の時「モンテクリスト伯」を読んだのであるが、14年間幽囚の身の主人公エドモン.ダンテスが奇跡的に脱獄に成功する件は胸をわくわくさせながら読んだことを今も鮮明に覚えている。この作品は黒岩涙香が明治34年に翻案し、万朝報に連載されその後「岩窟王」として出版され広く読まれるようになったが、どちらであったかそのへんのところは定かでない。

  現在の鎌倉山の地名は昭和の初頭に分譲した時につけられた地名で、笛田は戦国時代に見える地名であるが地元以外では鎌倉山の方が通じ易い。その鎌倉山は津、笛田、極楽寺と入り組んで境界線が判然としない。だから、笛田625と言っても探索するのが億劫でいつかそのうちにと思っていた。

  ところが、その後、日を置かずに「魯山人を中心とした思いで」と言う本に巡り合った。画家の越後島国男さんが書かれたのであるが、その冒頭に近い部分で、山内義雄の知遇を得た経緯を正確な記憶をもとに記していた。

  越後島さんが若い頃大船郵便局の郵便係事務員で、笛田地区界隈で、郵便物が頻繁にくるのは山内義雄しかいなかった。そこで自然に山内義雄と親しくなり、師事していた稲田吾山が死去した後、越後島さんは山内義雄の世話で、中村岳陵の門下生になったのである。

  山内義雄は出版社との連絡も笛田住まいでは不便だったので、奥さんを笛田に家に残して東京周辺をあちこち転居した。当時大船郵便局ですら電話のない時代であったから、連絡はすべて葉書ですましていた。

  この時代に東京外語の教え子である石川 淳が、鎌倉の妙本寺に住んでいたが、笛田625も住所になっている。してみると、石川 淳は連絡場所にここを使っていたのであろうか。

  山内義雄は昭和2年、世界文学全集の印税が5万円近く入った。極楽寺に豪邸を構え、車を買い求め、運転手を雇用し、派手な生活を送ったが、一年経たないでスッテンテンになったという噂が立った。その後に転居したのが笛田625の徳増家の離れである。

  この本には番地こそ書いていなかったが、山内義雄が笛田の徳増孝三郎さんの離れを借りていたことがあったとはっきり記述していた。これを目にした途端、山内義雄の旧居をにわかに知りたくなった。それは母親が昨年の暮から笛田の湘南記念病院に入院しているので毎日行っていることも一因であろう。   早速鎌倉山の交番に行き、明細地図によって笛田625を探してもらったら、何と驚いたことには、病院から南に300メ−トル行ったところのいちご園の隣であることが判明した。

  そこなら今通ってきた所なので、引き返して刺を通じた。藁葺き屋根の見るからに風雪に耐えた農家であることがわかる。その母家の右手に二階建ての木造の家が建っていた。ひとめでこれがそうだなと直感的に分かった。

  この家の当主昭孝さんは13代目の旧家で、母家は200年前に建てられたものであり、数年前に屋根を葺いたばかりであるという。想像していた通り、山内義雄が仮寓していた頃は平屋であったが、そのご二階を建て増してはいるが、一階は昔のままであるとのこと。南向きで周囲には草花が植え込まれていた。前方に鎌倉山の丘陵が見渡せ、閑静な広々とした農家の庭があるばかり。典型的農家のたたずまいである。「鎌倉に田舎あり」と言った景色である。

  孝三郎さんの孫である昭孝さんと話す。こういう農家の縁側で腰掛けて話をするのは、本当に久し振りである。囲炉裏を囲んで話をするのもいいけれども、日差しを受けながら話をするのもいい。なんとなく心が和むようである。

  昭孝さんは孝三郎さんから聞いた話として、或る時西条八十が山内さんを訪ねてきた。だが生憎山内さんは不在であった。その時に色紙に書いてくれたものが残っているという。

  西条八十と山内義雄は早稲田でフランス文学を講じていた同僚でフランスの詩を愛好することから、山内義雄と親しくしていた。西条八十の母親の実家が藤沢の本町であったので、その帰りに立寄ったのかも知れない。たとえ山内義雄に会えなくてもそこは詩人西条八十のことであるから、これだけ美しい自然を目の当たりにして詩想が湧かない筈がない。越後島さんの記述によると、当時は大船郵便局ですら電話のない時代だったというのであるから、のんびりした時代であった。

  ここから東海道線の汽車が見えたというから、まったく田園風景が展開されていたわけである。昭和20年代すら電話のある作家は船橋聖一だけだったのである。だから作家仲間は互いにふらっと相手の家を訪ねていき、何時間も雑談をしていた。そうした文学者どうしの付き合いがエッセ−や日記に書かれているが、人間的付き合いが今と違って深かったので、興味尽きないものがある。

  牛込の江戸川アパ−トが昭和7年に建築が始まり、完成したのが昭和9年、山内さんはその時に入居した。フランス文学者の中では一番の蔵書家と評されていたが、本が所狭しとアパ−トの至る所に積み重ねられていた。

  山内義雄は「江戸川アパ−トといったような場合、書架を置くべき壁面が少ないことから、何より蔵書の問題が極めてデリケ−トになってくる。押し入れに入れ、押し入れの上、梯子でなければ手の届かない天井に近い戸棚にまでも詰めてしまう。そうこうするうち、結局取り下ろしが億劫になり、とどのつまりそう読めるものでないと納得が出来て、ある日、ある時、何か爽やかな気持ちになりたくなって、あっさり整理をしてしまう」と蔵書について述べている。

  山内義雄は長年のフランス文学の翻訳者としての業績で、昭和40年に芸術院会員に推挙された。そのすぐあとで、今は廃刊になってしまった「朝日ジャ−ナル」に皇居のお濠端をバックに公園のベンチに坐っている写真が載っていた。この場所は山内義雄にとってこれほど相応しい場所はない。

  若き日に、皇居の周囲を案内し、美しい東京の風景を紹介したフランスの詩人で駐日大使のクロ−デルの思い出に耽っていたに違いない。クロ−デルをして「私の主たる翻訳者はまったく聡明な、完璧にフランス語を話す山内義雄という青年だ」と言わしめた。クロ−デルの詠った当時も今も東京の最も美しい場所のひとつである。

  山内義雄はその中で語っている。フランスに行く前にアメリカに行って来たが、アメリカも悪くないと思ったと。そしてセントラルパ−クで落ち葉一葉拾ってカバンの中に収めて帰って来た。山内義雄は学生のころに発表された「あめりか物語」の永井荷風を偲んだ。上田 敏を慕って京都に行ったが、上田 敏は程なく他界したが荷風と共に文学上の師として終生敬仰した。

  萩原朔太郎は「フランスに行きたし、されどフランスはあまりも遠し」と行ってあれほどボ−ドレ−ルの国に憧れながら、遂にかの地の土をふむことなく終わった。

  山内義雄が初めてフランスに行ったのは、昭和46年、亡くなる2年前のことである。これが最初で最後のフランス紀行であった。

  山内義雄が精力的に仕事をした笛田時代の旧居の一角はいまも変らずにある。そこに至る農道は今では幅員も広がり舗装されているが、山内義雄の友人達が大船から歩いて来たというが、徳増家の屋敷に一歩足を入れると70年前と変わらないたたずまいが今もある。越後島さんの郵便局員の先輩は、会うといつも山内さんのことで持ち切りだったという。山内義雄は人柄がよくだれにでも好意をもたれたので、市井の中にも一種のフアンがいた。死後雑誌「帖面」が追悼号をだしたのはその好例である。

  先日越後島さんから、一通の山内義雄の絵葉書を恵贈された。日付けは昭和5年3月30日「今度また左記に移りました。郵便物いつもお手数ですが、よろしく願います。
東京市内 下落合二○九九
大淵武夫方 Y.Y」

せいちゃん  
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