桜田門外の変と広木松之介の行方


 

  政子が夫源頼朝の菩提を弔うために造ったとされる大町の安養院の真向かいに日蓮宗上行寺がある。創建は正和2年(1313)に日朗上人の九人の高弟の一人である日範上人によるものである。だが明治2年の大火で消失してしまい、現在の本堂は、名越松葉ガ谷妙法寺の祖師堂を譲り受けて移築したものである。

  その本堂の左手に高さ2メ−トル幅80センチメ−トル程の広木松之介の石碑が立っている。大正5年に当寺の第42世日隆上人が建立、題字は上村彦之丞によるものである。墓は境内の東南にある。

  広木松之介は万延元年(1860)3月3日の午前10時ごろに、江戸城桜田門外で井伊大老を襲撃した水戸浪士18人(一人は薩摩藩)の一人である。

  この水戸浪士らの暗殺計画は、最初は2月28日に予定されていたのであるが、警備が厳しくその日までに集合できなかった。3月1日に金子孫二郎は江戸に来ている同志を召集した。場所は日本橋西河岸山崎屋と言う待合茶屋。金子、木村、稲田重蔵、佐藤鉄三郎、有村雄介。この茶屋は日頃客がすくなく、広間を宴席に別間を密議の場とした。

  評議の結果、明後三日が上巳の節句、大老が登城するのを見て、この日に挙行することにし、場所は大老が通行する外桜田門外と定めた。

  金子の作った箇条書きによると、武鑑を手に持ち登城大名の行列を見物に出たように装う。四、五人ずつ一組になって互いに助け合うこと。攻撃は、はじめに先供に討ち掛り、駕籠脇の狼狽する隙に乗じ、元悪を討ち取る。これは十分討ち留めても、必ず首を揚げることを怠ってはならぬ。負傷せる者はその場で自決するか、または閣老の屋敷に名乗ってでる。その他の者は全部京都に微行すること。

  3月2日に品川の相模屋に集結した者は野村、木村、関、佐野、黒沢、大関、斎藤、山口、稲田、蓮田、広岡、森、鯉淵、岡部、杉山、広木、森山、海後に佐藤。出府以来同志の一席に会宴する、この時が初めてであり、最後である。

  その夜は詩歌を賦し、悲憤慷慨、痛飲した。早夜半過ぎると、しらみたる景色なので、戸を明けてみると、雪がことのほか降っていた。皆はくっきょうのこと(好都合)と言い合って、内心喜んだ。

 やがて、二人、三人あるいは五人、六人と内連れて人目をはばかって、約束の芝愛宕山に赴いた。ここで薩摩藩の有村次左衛門に対面する。18人のうち唯ひとりの薩摩藩士である。

  夜が明けてからも雪は降りしきった。桜田門外に行って、地方から見物に来たかの如く装う。堀端にある葦簾茶屋に入って、燗酒を飲んだり、堀に舞い下りている鴨を眺めたりして、付近を徘徊し時の来るのを待つ。

  城の櫓の太鼓が五つ(午前8時)を告げる。朝らしい活気が往来に見えた。登城の行列が彼らの前を通る。懐中から武艦を取り出し、道具などを見比べて、どこの大名であるか確かめる。

  井伊大老の屋敷の赤門が、雪が小止みになると、堀端道の向こうに見える。組組にわかれて路上に散らばっていた一同を一度にはっとさせる瞬間が来た。その赤門が左右に開き、行列が道路に出てきた。一本道具を先頭に立て、五、六十人の人数で、いずれも赤合羽に、かぶり笠。ふる雪の中を次第にこちらに向かって進んでくる。

  同志の者達は自然に予定の行動についた。関 鉄之介が先頭に濠沿った右手の側を歩いて前進し、それに続いて佐野、大関、広岡、森山、海後、稲田の面々が、さりげなく歩いたり、立ち止っている。合羽を着て下駄ばきで、傘をさして、尋常の通行人としか見えない。反対の左の側杵築藩主松平大隅守の塀に沿って、黒沢、有村、山口、増子、杉山の組が歩いている。すこし離れて鯉淵、蓮田、広木が続く。

  行列の先頭が左翼のいる人々の前を通り過ぎると、辻番小屋の路傍に蹲っていた森 五六郎が笠のままつかつかと進み出て、直訴でもするかのごとく「捧げます」と声を出しながら進んでいった。

  井伊家の供頭日下部三郎右衛門、供目付沢村軍六の両人が、見咎めて、誰何しながら森の前に出た。その時、森は笠を捨て羽織を脱ぎ去ると、白鉢巻きに十文字に襷をかけた姿を現して、刀を抜いて日下部目掛けて斬りかけた。大雪だから彦根の供廻りは羅紗か油紙で作った袋で鞘を覆い、湿気が刀身に透らないように、その上から柄袋をはめ、鍔や目貫を護ってあった。日下部もそれだったので、刀が抜けなく鞘もろともに抜いて防ごうとしたが、森に額を斬られて倒れた。供目附の沢村軍六が躍り出たが、森の一刀で大袈裟に斬り下げられた。ピストル一発を合図に濠と反対方向の黒沢、有村、山口、増子、杉山らが一斉に斬り込んだ。

  不意の襲撃なので、前供が左右に分かたれた。駕籠脇の者まで前に飛び出したのを、寄手は前方から斬り込みまた濠側の新手が駕籠脇が手薄となったのを見て、競って殺到した。

  井伊家は武勇で聞こえた家柄なので、供目付の川西忠左衛門は両刀使い、稲田、広岡に深手を負わせた。だが川西が倒れると、大老の駕籠が地上に下ろしてあるのが見えた。駕籠の陸尺は恐怖におののいて退散した。稲田重蔵が深手のままこれに駆け寄り、太刀を両手を握って、駕籠の中を差貫いた。これに続いて海後嵯磯之介が激しく突き刺した。宙を突いて手応えがなかったので、刀を取直して、駕籠の前の方へ突き入れると肉体の重みのある手応えが確かにあった。

  降る雪の中での死闘が繰り広げられた。有村次左衛門、佐野竹之介が左右から踊り込んで、佐野がまた駕籠を刺し、有村は駕籠の戸をむしりあけて大老の襟首を取って引き出した。まだ息があったのを有村はもんどりのあたりを一撃し、大老が前にのめり、手を杖にまた起き直ろうとしたのを首を討ち落とした。

  すぐに刀の鉾先に首級を刺し貫いて「仕止めた」と叫んで同志達に知らせた。駕籠は打ち捨てられ、その傍には大老の胴体が横たわっている。その他の死体、傘、下駄、刀身踏みにじられ、散乱している。有村次左衛門が大老の首を刀に貫き、愉快、愉快と引上げていくのを重傷を負って気絶していた小笠原秀之丞が、その叫び声を聞き、起き直って後を追って有村の後方からきりつけた。有村は屈せず、振り向いて、小笠原を斬り落とした。小笠原は翌日まで生きていてが、誰かおれのそばに二、三人いてくれたら、主君の首級を敵に渡しはせなんだと言って、こときれた。

  最初に駕籠に刀をいれた稲田重蔵は現場で討死にした。大老の首級を携えていった広岡子之次郎と有村次左衛門は辰ノ口で自殺した。

  この壮烈な戦いは時間にして約10分。

  この要撃で稲田が闘死、山口、鯉淵、広岡、有村が重傷のため自刃。斎藤、佐野、黒沢、蓮田は老中脇坂安宅邸に、森、大関、森山、杉山は熊本細川斎護邸に自訴したが、佐野、斎藤、黒沢は傷のために死んだ。

  彦根藩側では即死、深手のため死んだもの八士。関、岡部、広木、海後、増子と現場にいた野村、木村は逃れて行方をくらました。

  幕府が井伊大老の横死を世間に隠そうとしたのは、公儀の威光のためのみならず彦根の家のためを思ってであった。事件が起った翌日には将軍家茂が特使を彦根藩邸に遣わし、井伊大老に朝鮮人参を見舞いに贈った。これは翌月21日になっても、病気の大老に将軍から使いを出し、見舞いの品々を遣わしたくらいで大老の功績を思うのとともに、彦根藩が立っていけるように世間体を繕ったのである。

  井伊家の菩提所は世田谷の豪徳寺であるが、そこには暗殺された日に大老の体内からの出血によって染まった土塊と共に遺骨が、墓石の下に納められている。

  広木松之介はこの事件の直後、江戸を脱出して金沢に潜伏したが、ここでも、身の安住を得ることが出来ないとみえて、各地を転々と放浪して、鎌倉に辿り着いた。

  当時の鎌倉は、古都の面影も乏しく、衰微した寒村であり、漁村であった。材木座の源七と言う魚仲買人の家に身を寄せることになった。この家は商売柄、人の出入りが多いので、安全な隠れ家ではなかった。源七は思案の挙げ句、懇意にしていた上行寺の住職、通善上人に相談を持ち掛けた。

  或る夜源七の妻が、背負籠に広木を隠し人目を避けて背負って行ったと言う。上行寺に匿われてからは、頭をまるめ僧形となって一ヶ年ほどここで過ごした。そのうち風の便りで、あの日参画した同志は皆死んだということを耳にした。事件後満二年目の文久2年(1862)3月3日、井伊大老の三回忌に、寺の南東で切腹した。享年25才。

  広木松之介が一年間、見知らぬ寺で朝に晩にあの日を境にして生死を分けた同志達のことを思わぬことはなかったであろう。郷里水戸に残してきた親きょうだいを思慕しない日はなかったに違いない。あと6年すると、徳川幕府が崩壊し、明治維新という265年の封建制度に代わって、新しい時代の幕開けになるのであるが、潜伏している身にしては時代の胎動を洞察することは困難であったろう。明治35年に維新の功を認められて正五位を贈られた。そして大正5年に上行寺42世日隆上人が顕彰碑を建立した。

  今でも時折、広木松之介に縁のある人々が水戸から墓参に来られると言う。材木座の源七と言うのは材木座の海岸に近い魚屋「魚常」の曾祖父にあたる。

  この桜田門外の変は大老が安政5年(1858)に勅許を待たず、独断で日米修好通交条約を調印し、違勅問責のため押懸登城した水戸老侯徳川斉昭を処罰したばかりでなく、将軍継嗣問題で、一橋慶喜を斥けて、紀伊藩主徳川慶福(後家茂)を継嗣にした。それに反対した公卿、大名や吉田松陰、梅田雲浜などを処罰した安政の大獄に対して義憤を抱いた水戸浪士と薩摩浪士の決起によるものである。大老の死は幕威を失墜させ幕府衰亡の転機となり、また坂下門外の変を誘発する一因ともなり、時代を大きく転換する先駆的役割を担ったことだけは間違いない。

  さして広くない上行寺の境内からは、安養院の道路側土手いっぱいに咲き誇っているオオムラサキツツジが本堂を隠し、鬼瓦など屋根の一部だけが見えるほどに高く咲いていて、背後の山の新緑に映えてこの上なく鮮やかである。

せいちゃん  
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