伊勢吉漁師聞書


  生まれも、境遇も違う漁師の小林伊勢吉と文学専攻の土屋秀四郎が昭和27年から29年にかけて戸塚の結核療養所(現横浜国立病院)で知り合い、「伊勢吉漁師聞書」を遺した。

  伊勢吉は昭和30年8月、土屋秀四郎は昭和32年にこの世を去り、土屋秀四郎の姪夫婦の資金援助によって「伊勢吉漁師聞書」は神奈川県教育委員会から昭和36年に刊行されるに至った。

  腰越の漁師、伊勢吉は幼いころから、祖父母、両親や周囲の人々から、江ノ島や腰越の風俗や習慣、迷信等を聞かされて育った。伊勢吉は元来強記の持ち主で学業も出来、性格的にはおとなしく、内気ではにかみやのところがあったという。頑丈な体躯でありながら、喘息持ちで、兵役も免除され、家業である漁師を続けることはできなかった。入院してからは一度も帰宅せず養生に専念した。

  小林伊勢吉はこの書の中で、腰越神戸(ごうど)の出身と記されている。神戸という地名は現在の腰越2丁目にあたり、義経の腰越状で知られる万福寺周辺の海岸に近いところで、昔から漁師が多く住んでいた所である。この界隈は小林姓が比較的多いので、その係累がいるかも知れないと思って何人かの土地の古老にきいてみた。

  その古老の一人、腰越2丁目の小林才兵衛商店(米屋)のおばあさんが伊勢吉を知っていた。その近所であった。現在は、伊勢吉の長男(60代)が後を継いでいるが、代々続いた漁業は伊勢吉をもって廃した。その長男は現在体が不自由で、父親伊勢吉の昔のことは質しても分らないとその奥さんが言う。奥さんが嫁いだ時には、伊勢吉は既にこの世の人ではなかった。

  伊勢吉には20歳以上も年の隔たった77歳の妹が、現在川崎に住んでいるが、伊勢吉は子供の時から、学校の成績はよく、空気のいい海のそばに住んでいながら、生来喘息持ちであったのは不思議だと語っていた。

  伊勢吉が土屋秀四郎との共著「漁師伊勢吉聞書」という本を出していることを家族や妹に伝えると、そのことを聞いていなかっただけに大変驚き、喜んでいた。

  伊勢吉は、同室の土屋秀四郎が熱心に聞きただすので、張り合いが出て、これまでの漁師生活の中で見聞した言葉や事柄をものに憑かれたように語った。ここに記されているのはその何分の一しかメモ出来なかったという。そしてそれが伊勢吉にとっては単調な入院生活の楽しみでもあり、生き甲斐でもあったのであろう。

  一方土屋秀四郎は、土屋元作を父にもつ慶応大学英文科出身の学究膚の人であったが、当時不治の病とされていた結核に犯され、終生病院と縁が切れなかった。そのころすでに兄弟姉妹はほとんど病死し、妻子も結核に感染して先立たれた。

  土屋元作は大阪朝日新聞の初期の花形ジャ−ナリスト、経済の主筆で朝日新聞主催の世界一周漫遊の企画を立てたり、そのコラムは博識をもって知られた。若き日の長谷川如是閑や緒方竹虎らの上司であった。漱石が東大を辞職して、東京朝日新聞に籍を置き小説を書き始めたころのことである。当時は大阪と東京の両朝日が、紙面を通じて張り合っていた。

  土屋元作は大分県出身で、瀧簾太郎は甥にあたる。廉太郎と秀四郎とは従兄弟にあたるが廉太郎も26歳で同じく結核で夭折している。土屋元作と横浜のホテルニュ−グランドの社長野村洋三は義兄弟であるので、秀四郎にとって洋三は伯父である。

  洋三の孫に野村弘光さん(原地所常務)がいる。野村弘光さんの母親と秀四郎はいとこ同志であり、野村洋三の妻の実家が箱根の紀伊国屋旅館で、野村弘光さんはよく子供の頃夏休みに紀伊国屋旅館に行った。秀四郎もよく来ていて箱根のニュ−スを新聞の形で出したりして、若い時からものを書くことが好きであったという。

  伊勢吉が湘南の腰越の方言やしきたり、魚にまつわる伝説や迷信、天王祭の話を思いだしては土屋秀四郎に語るのであった。熱心にノ−トする秀四郎の姿に益々、伊勢吉は知っている限りの話をした。

  土屋秀四郎は親友の塚崎進氏から送られて来た「郷土生活の研究法」や「日本民俗学研究」に触発されて民俗資料の収集を始めた。漁師伊勢吉の語る民俗的話に新鮮さを感じたのであろう。それをノ−トに克明に書き留めておいたのは昭和29年9月から30年7月にかけてであった。話者の伊勢吉が亡くなった後は約8ヶ月整理、清書にあてた。実際はもっと多かったのであるが、不明な部分は削除された。

  この一部が相模民俗学会誌「民俗」に掲載され、柳田国男や学会の注目するところとなり、内海延吉の名著「海鳥のなげき」著述の動機となった。
  魚の話、漁の道具、漁労、船と海上生活、漁と信仰、海の怪異、腰越雑話からなっている。

  魚は種類によって棲む処が決まっている。さばは表面、トラフグは中ほど、スナフグ、キスは海底。底の魚はまたネの魚とマの魚とがある。釣り針の説明、もぐってとるアワビ、さざえ、ワカメキリの話、船の各部分の役割や名称、海上で魚を罵ってはいけない。海でドザエモンを見つけた時見逃すとバチがあたる。カツオは源氏の神魚、船を作った時に船霊をかくしておく処を作る。腰越の中でも地域によって家族の呼び名が違っていたこと等がことこまかに書かれている。

  腰越では16歳になると、半元服する。この年から子供でなくなって、若い衆の見習いになる。町内の経費は家々の若い衆の数で割り当てられ、半元服は祭りの時費用を半分だす。17歳から20歳で若い衆になり祭りには出る。出られない場合は罰として日当を出す。半元服したものは一日中、ただで使いなどにやらされる。草履と経木の帽子はくれるが、天丼一杯で追い払われる。

  正月には船をオカに引上げて、帆柱、帆などを横に結わえて、帆の立つ所へ一本の門松を立てる。4日まで休み5日から漁にでる。

  腰越と津は入り組んでいてその境界線は判然としない。海寄りの腰越には漁師が多く、家の興亡は激しく、農民の津は変化が比較的少ない。
  漁師同志は絶対ケンカをしない。海上でしけにあって互いに助け合わなければならない場合が多いからである。その漁師も釣り舟に転業したりして後継者不足に悩んでいる。
  津では畑も田圃も今では殆どなくなり、農家専業はいない。その畑には住宅が密集してよそからの住民が移住してきている。

  伊勢吉の家の近くに小動神社がある。8月になると祭礼が行われ、夜には近所の老若男女が浴衣がけで団扇を持ってあつまってくるが、もはや腰越訛りやこの地特有の言葉を耳にすることは出来ない。

  半世紀前に書かれた「伊勢吉聞書」の中のようなことが書き残されていなければ、今では腰越も他の土地となんら変ったところがないくらいに変貌してしまっている。

  腰越の昔を今に伝える書物には、呉文柄著「腰越考」飯塚友一郎著「腰越帖」があるが、無名の幸い薄き小林伊勢吉、土屋秀四郎の「漁師伊勢吉聞書」も逸せられない。

せいちゃん  
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