旧丸ビルの杭と「松の屋敷」


  3月19日の朝日新聞の夕刊に「出たクイはベンチになった」と言う見出しで、解体された旧丸ビルの丸太がベンチとなって、再利用される記事が載っていた。

  それによると、80年もの間、旧丸ビルを支えてきた丸太の杭は、米松(オレゴンパイン)であった。山梨県の家具職人の手によってベンチに生まれ変って、旧丸ビル近くの新大手町ビルの一隅に置かれるという。

  この職人は、旧丸ビルの所有者の三菱地所が、この杭をチップにして封筒やノートを作るという情報をききつけた。かれは、何とかしてその一部だけでも木の形として残しておきたいとの一心から、三菱地所に米松を譲ってくれるように頼んだ。

  この家具職人はこれまでにも10年以上前から、使い古しのワインの樽をベンチに作り替えてきた実績がある。それだからこそ、歴史的な建築物をお役がすんだからと言って、それこそ弊履の如く捨て去るに忍びなかったのであろう。工匠の良心である。材木にも生命が宿っていて、人の目に触れないところで、木材本来の特質を生かしてその役割を果たし、正に陽の目をみた時には、木っ端微塵に粉砕され人間に別の形で最期のツトメをするはずであった。

  旧丸ビルは1923年に地下深く突き刺した直径30センチ長さ15メートルの米松が5453本を土台にして完成された。その中の選ばれた30本は、5メートルに切って、きれいに生き返らせて3脚のベンチとなって、憩いの場に登場する。

  機能的なコンクリートのビルの中にあって、木目を生かした手作りの工芸的ベンチは、ビルに働く人間は勿論、ここを訪れ往来する多くの人々にほっとした感じを与えることは間違いない。

  丸ビルは長らく、日本のビルデイングの象徴として君臨してきた。ここで働くことは当時のサラリーマンにとって一種の誇りであり、憧憬の的であった。そういうこともあって、丸ビルに勤めていたサラリーマンが「丸ビル」というタウン誌を発行していた。

  小津安二郎は「早春」のなかで、地方から上京してサラリーマンになった青年が、病気になり休職している時に、見舞いに来た同僚にしみじみとした口調で、田舎にいる時丸ビルに勤めることが、長年の夢であったと語るシーンがある。

  三井不動産の本社は丸ビルにあったが、三井ビルが新宿に出来た時移転したが、数年足らずで又丸ビルに舞い戻ってきたことがある。当時は都庁がまだ丸の内にあった時代であったし、地方や外国の賓客が、東京駅を中心にしないと足の便が悪いことを改めて知らされたということであった。現在はどうであろうか。

  源氏鶏太の「停年退職」という小説の中で、主人公が定年まで無事勤めて最後の日、丸ビルを出て、東京駅の前で振り向く。丸ビルの窓の灯りが、煌煌と灯っている光景を見て、自分が明日からここに出勤しなくても、以前と同じように変らずに会社がある。そう思うと主人公の脳裏に去来するものは、「一体自分は会社にとって何であったのであろうか」と、言わせているくだりがある。

「早春」は昭和31年の制作であり、「停年退職」は昭和37年に朝日新聞の連載小説として書かれたのであることから、少なくとも30年代までは、丸ビルのステータスシンボルは維持されていたことが窺える。

  吉屋信子は、早くに作家になり、オフイスの生活をしたことがなかったので、丸ビルの前に行くと丸ビルの中で、社員が如何にも快適に仕事をしているように想像された。四六時中家で机に向かっているので、「ああいうオフイスで働いてみたいなア」と思う時もあると言っていた。

  米松と言うのはオレゴンパインのことで、オレゴン州を中心に北アメリカ西海岸の諸州に分布しているマツ科の針葉高木。建築、橋、船舶用材、まくら木に利用され、戦前は大量に輸入された。因みにオレゴン州の州花はオレゴンパインである。

  それが、今から80年前に日本に輸入されて、日本最初の本格的高層ビルの土台に供されたのである。正に縁の下の力持ちである。丸ビルの建物そのものは、この世から消滅してしまった。しかし丸ビルにまつわるエピソードは無数にあって後世に語り継がれるであろう。舶来という言葉が新奇の響きのあった時代、丸善の支店、明治屋などここのアーケドは「外国」があった。上述のエピソードは丸ビルの九牛の一毛で、日本の近代史に少なからず関係がある。丸ビル事典が編纂できるくらい屡登場する。


  この記事を読んで、計らずも稲村ガ崎にあった「松の屋敷」のことをふと思い出したのである。

  1980年の夏、偶々稲村ガ崎の有島生馬邸の前を通ったら、有島邸が取り壊されている最中であった。炎天下で働く作業員にその経緯を聞いた。

  有島生馬が1974年に死去した後娘の有島暁子は、アトリエを何とか保存する道はないかと心がけていた。生馬の遺志が生かせるなら、無償で提供してもいいという意向をききつけた信州新町が、候補地として名乗りを上げたのだという。その日の作業員達は信州新町のボランテイアであった。信州新町の内外の人々による寄付によってアトリエは移築され、有島記念館として存続するようになった。

  この「松の屋敷」に有島生馬夫妻と一人娘の暁子が、東京麹町の広大な武家屋敷から移住してきたのは、大正10年12月であった。その前半年ほどの間、近くにある新渡戸稲造の別荘(現 聖路加看護大学アリスの家)に滞在していた。この頃から東京の文化人、山下新太郎、石井柏亭 、与謝野夫妻、西村伊作、 河崎なつ、沖野岩三郎 、海老原喜之助などが有島家に集まるようになった。いわば多士済々一種の芸術家のサロンである。

  有島生馬は、新渡戸稲造の別荘から数軒先のイタリヤ人が所有していた屋敷the pines(松の屋敷 )の屋敷内を偶々留守番の老人に案内されてすっかり気に入ってしまった。邸内には伸び放題の樹木の陰にベージュに茶で縁取りしたコロニアル スタイルの家屋、文字通り廃屋である。

  有島生馬は次のように書いている。「なぜか訳は分からないが、私は木の香りのぷんとするような真っ白い新築の家屋は嫌いだ。」(中略)「、、、、、しかし私はそれよりも、もっと古い家、いつからかもう人のすみ捨てたような家、壁が落ち軒が傾き、月が常住の灯火をかかげ、霧が不断の香りを焚くと謡われたような廃屋をみるのが好きだ。なぜか分からない。 、、、、、、、」「四阿屋から木造の本館の全体が一目に見られた。総二階の殆ど四角いペンキ塗りの建物だった。南側に海と日光に向かって広いベランダをひろげていた。 、、、、中略 、、、、、、、鎧戸がどの窓をも堅く閉じていた。一度はどの窓も目をあいていたにちがいない。見ていたにちがいない。主人が息を引き取ると総ての窓も自ら目を閉じて終わった 、、、、、、、」

  有島暁子はもしこの時点で父とこの廃屋である「松の屋敷」の出会いがなかったら、この家は昏々と眠り続け、永久に目を閉じたであろうと言っていたが有島生馬によって又目を開かれるようになった。

  大正9年に東京にいた時に暁子は、疫痢にかかり九死に一生を得たのであるが、その後鎌倉に来てこの「松の屋敷」の生活は幸福そのものであった。母親はピアノのレッスン、父親なキャンバスに向かい疲れると、庭から七里ガ浜の砂浜に通じる渚を何の心配することもなく散策の日々といった生活を過ごしていた。生馬の作品の中に、この「松の屋敷」の門構えの風景が描かれているのがあるが、有島家の至福の時代を象徴すると言ってよい。

  有島生馬が最初にこの「松の屋敷」を訪れた時に、留守番をしていた老人は、新しい主人の有島家の忠僕となった。その昔、客船のボーイをしていた時の経験を生かし、来客時には腕によりをかけて食事の支度をした。そして天涯孤独なこの老人は生馬の腕に抱かれてその生涯を終えた。もし生馬と出会わなかったら、愛犬と暮らしていたこの老人はどんな最期を迎えたであろう。

  明治23年に建てられたこの屋敷の持ち主は、明治時代に来日したイタリヤ人で、日本で産をなしアメリカに帰化し、その頃すでに8年前にアメリカで死去していた。、遺産相続人がいなくて米国政府が管理していた物件であった。有島生馬は横浜のアメリカ領事館に交渉して買い取り、改造して住めるるようにしたのである。

  戦時中は米軍が相模湾から上陸するという風聞があったので、有島家は信州の南佐久に疎開した。この時から有島家と信州との関係が生まれた。戦後になっても、信州が気に入り鎌倉に帰ってくるのが遅かった。勿論食料事情が悪かったこともあろうが居心地がよかったのである。鎌倉に帰って来てからも信州を往来した。

  アトリエが移築された後も暁子はその一隅に住み、大半は暁子ゆかりの上智大学の研修保養所になった。そして2年後の1982年にその責任を果たしたかの如く暁子も永遠の眠りについた。こうして有島生馬 暁子二代に亙って思い出深い「松の屋敷」は、長らくその生命を持続けることになった。若き日にイタリアに留学した有島生馬が、イタリア人の建てた明治の洋館に住んたことは不思議な因縁と言わざるを得ない。

せいちゃん  
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