元使塚のえにしに導かれて


 

  鎌倉と藤沢の境に日蓮法難の地、竜口寺がある。鎌倉時代は片瀬から腰越にかけて、この辺一帯の海辺は刑場であり、日蓮も佐渡流罪の途中すんでの事で斬首されるところであった。

  その竜口寺の西側に日蓮宗の常立寺と言う寺がある。山門をくぐって左手の境内に元使塚があり、それを傘するように老松一樹のそばに、大正14年に元寇650年を記念して、建立された法華題目碑がある。

  元の使者杜世忠ら5名がフビライの命を受け、時の執権北条時宗に無条件降伏を迫って来日(1275)、勿論時宗は激怒、彼らは九州の博多から、ここ竜の口に召し寄せられて斬首。その今はの際に遺した詩文(漢文)が、元使塚の側の碑陰に刻まれている。

  門を出ずるとき妻子寒衣を贈り、問う我が西行幾日にして帰る時、もし黄金の印を佩びせば、蘇秦を見るに機を下らざることなけん(杜世忠)、四大とも主なし、五温悉くみる空なり、両国の生霊苦しまん、今日秋風を斬るも(何文着)

  いずれも30代の言わば、当時のエリ−ト外交官である。故国に使命を達成し、将来が約束されていた。それが志半ばにして、異国で惨死の憂き目にあい、最期の心境を吐露したのである。

  その当時の厳しい政治体制でこうした遺文が、残っていた事自体異例と言ってよかろう。それに大正14年に元寇650年を記念して法華題目碑が建立されたことにある種の疑問をいだいた。

  大正14年と言えば、大正12年の震災から2年、ここ湘南地方でも各地に被害を蒙った。そうした復興途上でこうした寄進がなされたのはどう言う訳か、この寺の檀家で97歳の古老の話によると、現住職の先先代が単独で日中友好を願って横1メートル高さ2メ−トルの碑を建てた。又元寇記念館も開設し、元寇関係の遺品が陳列されていたと言う。(現在は消滅)かってこの常立寺周辺は誰姿森と呼ばれ、蕃神堂が存在していたと[新編相模風土記]に記されているが現在はない。73年前に片瀬の一隅にすでに、日中の友好を念願していた僧侶がいたことに改めて注目したい。

  藤沢市は中国の国歌作曲家聶耳が、1935年に鵠沼海岸で水泳中溺死した事もあり、聶耳の故郷雲南省昆明と友好都市になっている。その鵠沼海岸には記念碑とリリーフがあり、毎年7月17日には墓前祭が行われる。数年前の60年祭には聶耳の令弟が来日された。その折り面談したが、写真で見る若き日の聶耳と大変よく似ていた。又藤沢市には日中友好条約が締結される以前から中国語教室がボランテイアで開かれ今も存続していて市民レベルの交流は盛んである。
  近年は日中間の往来は目覚しいものがあり、これだけ官民の人的物的な交流は、有史以来最も盛んであると言っても過言でない。

  この97歳の古老と言うのは、江ノ島の旅館「恵比寿屋」16代の主人、永野 清さんである。昨年の6月に白寿で永眠された。8月が誕生日であるから、あと2か月で満100歳の誕生日を迎える寸前で、惜しくもこの世を去ったことになる。

  最後にお会いしたのは去年の2月であった。単身で藤沢から東京に能を観に出掛けた話をされた。車中は込んでいて、坐れなかったのであるが、乗客で席を譲る者がいなかった。背筋がシャンとしていて、百歳の老紳士と思えなかったのであろうか。東京へ行くのにもこんな具合だから、藤沢に会合があると気軽に、江ノ島からバスで杖も使わずに行ったものである。

  片瀬界隈では、7位の長寿であった。記憶力が抜群によく、往時のことを昨日の如く話してくれた。今聞いて置かないと、永遠に聞きそびれると思って、いろいろ昔話を拝聴したものである。六代目菊五郎の額をロビ−に飾っていて、歌舞伎が若い頃から好きであった。伺った前日に藤沢の市民センタ−で菊五郎の公演があり、恵比寿屋に宿泊して今朝帰って行かれたことをさも嬉しそうに話していた。

  老人は昔のことは好んで話すが、とかく現在のことには疎く、関心がなくなるのが普通である。しかし永野 翁はそう言うこともなかった。現代の政治の腐敗、堕落、政治家の対外的な弱腰を慨嘆して止まなかった。いわば明治の人間の気骨を有していた。朝起きると、テレビでもNHKのニュ−スをいの一番に見るようにしていた。

  聴力も弱くなく、普通に会話していても不都合なことはなかった。いつだったか、「長寿の秘訣は?」と尋ねると、敢えて健康に気を使っていることはないと言われた。一日に一合の晩酌は欠かさないが、さして美食をすることもない。広い館内を巡回する位で運動も特にしない。でも広い館内を歩くのは大変な運動量である。就寝前に見回るのは、戦後一度出火しているからでもある。

  当時は今と違って、いくら江戸時代から続いている老舗の旅館だからといっても、銀行は融資を渋った。再建に苦労した経験が最後まで、自分で火回りの役をしなければ安心できなかったものと見える。

  早朝チェックアウトする客を見送るために、いつまでも床にいる訳にいかない。「ああ、もう少し寝ていたいなア」と思うことがあると述懐したことがあった。商売をしていない市井の老人なら、睡眠時間も意のままになったのではなかろうか。

  永野 翁は長命なので、奥さんはじめ、子供達にも先立たれ親戚の者が後継者としてやっていても、最後まで隠居する気になれなかたのであろう。又生涯現役で終ったのもその辺にあるかもしれない。

  99歳までには、2、3度胃腸の手術をし入院したことがあるが、至って元気そのものであった。最後は体の不調を訴えて救急車を家人に呼んで貰い、藤沢の病院に入院した。救急車で運ばれる時にも、救急隊員に「ご苦労さんです」とその労を労い、意識ははっきりしていた。入院後わずか2日で他界した。実に良い大往生である。恐らく100歳近くなると、寝たきりの老人が普通であろう。仮にそうでなくとも、あれほど健脚を誇り、良く笑い、7、80の老人と変わらない永野 翁のような老人は稀に違いない。

  永野 翁の知遇を得たのは、常立寺の大黒さんの紹介によるものであった。元使塚のことは檀家の恵比寿屋の大旦那が熟知しているので、聞かれたほうがいいですよとのことであった。最初年齢をきいて、97歳と言うので一瞬躊躇ったが、耳も遠くないし、お元気だというので、お会いしたのである。

  江ノ島の入口の鳥居を潜ってすぐの左側にある恵比寿屋は、正面玄関は昔ながらの旅館の面影を残しているが、一歩館内に足を踏み入れると、ホテルの雰囲気と変わらない。7、8年前に改築したのである。

  明治10年に来日したモ−スが、貝殻収集のため江ノ島で日本で最初の海洋研究所を開いたのは、この恵比寿屋の敷地内であった。関東大震災で旅館は倒壊してしまったので、それ以前の名士達の宿帳も消滅して分からなくなってしまった。従って永野翁の時代に2度の火災にあったので、古い書画骨董は殆どないという。惜しいことである。それだけに永野 翁の記憶が貴重なのである。

  先日恵比寿屋の菩提寺、常立寺に詣でた。相変わらず元使塚周囲は綺麗に清掃が行き届いていて、香華が手向けられてあった。檀家の有志の人々が供養しているという。永野 翁の墓は、本堂の左手のところにある。錆びた鉄の扉があり、石の柵で囲まれた立派な永野家代々の墓石が立っていた。

  その隣に榎本家の墓がある。「市政の碑」という石碑が建立されている。これは元鎌倉市議会議長、榎本義信さんを顕彰したもので、市議会議長を経験した人達が、積み立てて故人になった時に、その墓域の一隅に建立することによるものである。榎本義信さんとは生前親交があった。

  榎本さんは、戦後すぐに、光明寺に鎌倉アカデミ−を創立する際に、所有している山林や畑を手放しして資金を捻出した。鎌倉アカデミ−の初代校長が歌舞伎研究家の飯塚友一郎さん、理事が郷土史かの木村彦三郎さん、教授陣には鎌倉文士達がいた。4年ほどで閉校になったが、戦後のこのユニ−クな学窓から後年多くの逸材が輩出している。

  永野 清さんと飯塚友一郎さん、木村彦三郎さんで片瀬で野外オペラのような催し物を企画したことがあった。実現に至らなかったが、その時の様子を如何にも楽しそうに永野 翁は語ってくれたことがあった。これらの人々は、同世代で鎌倉の生き字引であり、鎌倉を愛してやまぬ文化人である。

  永野 清さんは最後まで毎月1日に下駄をはいて、江ノ島から片瀬の常立寺に墓参を欠かさなかった。信仰の篤い人であった。「永野さん、これでいつでもゆっくり眠れますネ」と心の中でつぶやきながら、常立寺をあとにした。斜陽が本堂の甍に反映してもの静かな午後のひとときであった。

せいちゃん  
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