母の看病で感じたこと思い出したこと


 

  朝の空がこんなに真っ青だったとは、これまで気がつかなかった。昨年の12月の中旬から、母親が大腿骨骨折で入院している笛田の湘南記念病院に朝食に間に合うように日参している。

  シーツ交換や清拭とかの際に、付添人はその席を外さなければならない。その間、廊下やロビーで、それが済むまで待機しているのであるが、ある晴れた日、病室と同じ三階に屋外休憩場のような場所で小憩することにした。

  病室の廊下の突き当たりのところにベランダの出口がある。その重厚な鉄扉を力いっぱい引っ張って、ベランダに出る。出てまず凛烈な空気を深く吸う。今まで胸奥に沈殿していた汚れた空気が一瞬にして吐き出される感じである。一枚の扉の内と外でこうも空気が違うものかと改めて晴れ晴れとした壮快な気分になる。

  病棟の内部は患者のありようを物語っている。瀕死の患者、救急車で搬送されて来た急患の緊急処置、食事も拒否して横臥したままで憔悴しきった患者、家族も病院に任せっきりで見舞いにこない老人、大声をあげて帰宅をせがむ痴呆症、自宅に帰りたくない天涯孤独の患者など列挙したらきりがないくらい。小生の母親も救急車で搬送され、その当座は高齢なので常識的には寝た切りになるのではとの一抹の不安を覚えた。

  ナースセンターと病室と廊下を往来する看護婦。患者のナースコールに優しく返答してすぐ患者の枕頭に駆けつける。大方の患者がベッドから身動き出来ないか歩行が可能でも、その歩武はゆっくりなので、敏捷な看護婦の歩きかたが目に付く。

  鉄扉一枚隔てた外界が視野に入ってくるのは、丘陵に三方を囲繞された人家の集落、点在する駐車場と湘南モノレールのガードレールと鉄塔があるばかりである。1メートル程のコンクリートのフエンスに凭れて、南西の丘を眺める。

  笛田の池が谷の彼方には、茅屋のある室が谷がある。鎌倉は谷戸で形成されていることが、ここから眺めると改めて実感できる。大きな谷戸に更にひだのように入り組んだ小さい谷戸がある。これを奥谷戸と言って室が谷などはその典型である。

  ベランダを通って20坪位の野外休憩場に出る。其の鉄柵には可愛い鉢が括り付けられ、その周囲には植木鉢が並べられている。その真ん中には丸い白いテーブルと四角なテーブルに木製のガーデンチアーが数脚ある。病室のストールと違って背もたれがあるので、腰を下ろして肘を持たせると、如何にも寛いだ感じになる。

  椅子に腰掛け、頭を真上に向けて双眼を閉じ、一時「肩の荷を下ろし」諸々の俗事を念頭から取り去って、そのままの状態で朝の陽光を浴びる。元来夜型であるから全身朝日を浴びることは少ない。 快晴であっても、1月の朝の空気は冷たいが、閉じた眼に差し込んでくる一条の日差しは、瞼の裏側まで暖かい。そしてその橙色の瞼の裏側を乱舞している黒い点を無意識のうちに追っている自分に気づく。

  数分後に徐に両眼を開いた瞬間の天空の碧瑠璃に一驚した。青空がこんなに目に染み入る程の強烈な青の海であったとは。その海に包みこまれ、身を大海に任せて揺籃しているかのようである。造形的なものは何一つないにも関わらず、これこそが神が創造した天といったものだと思った。天有天堂という言葉がふと脳裏に浮かんだ。

  旧約聖書冒頭の「はじめに神は天と地とを創造された。」という言葉があるがこれまでは観念的に理解しているに過ぎなく、この日初めて実感した。青空はこの日に限った訳ではない。振返って見ると、空、特に紺碧の空を見ては来たが、瞑目して無心に天に仰向けになったことがあまりないことに思い当たった。

  この場所は歩行できるようになった患者が、穏やかな日和の時に外界の新鮮な空気と太陽を享受するように設けられたものであろう。だから小生のような患者の家族の者が、利用するのはなにか場違いのような気もするのであるが、まだ寒いせいか患者に出会ったことはない。

  母は術後1月余り経った或る晴れた日、初めて車椅子で病室を出て、ベランダに通じる入口の所で日光浴をした。外は寒いので外気に触れることは出来ないが、母は一月ぶりに車椅子で坐れることの嬉しさを噛みしめているようであった。

  1月は晴天の日が多く雨も少ない。それに正月過ぎると、何となく陽光が春の日差しになっていて、昔から「春」という感じを受けるが、気分のせいか特にそのような気がした。

  眼前の光景は、点在する駐車場、時折、モノレールの往来する音。その下の大船ー江ノ島間の県道を疾走する車が見え隠れする。病院の脇の道を笛田川に沿って南に行くと鎌倉山のロータリーの近くの山道に出る。

  笛田は中世から使われている古い地名である。通称「鎌倉山」は昭和の初期に菅原通斎によって開発され、望月圭介が命名し、高級住宅のイメージを植え付けたがそれまでは笛田であった。よその人たちには一般には笛田の地名は馴染みが薄いかもしれない。笛田の一部が鎌倉山になったのである。

  今年の1月には2度も大雪に見舞われた。西鎌倉から湘南深沢までモノレールに乗車して病院に行った。わずか一駅であるが、車窓から俯瞰する鎌倉山の雪景色は、正に水墨画の世界であった。雪を冠した鎌倉山はモノレールでもない限り滅多に見る機会はなかろう。その光景は時間にしてわずか数分であった。

  湘南深沢から5分ほどの病院に着き、病室で母と一緒に、窓外の雪景色を眺めながめた。そうしているうちに、30数年前に読んだ中村白葉の「早春の譜」の一節を思い浮かべていた。「戦争と平和」などロシヤ文学の翻訳者である中村白葉は丸善の雑誌「学燈」に次のようなことを書いていた。

  「、、、、、、もう30数年も前の話である。丁度今頃のある夕方、私は赤いゴムの水枕をさげて、落ちつかぬ気持で庭におりて行った。当時まだ10歳にもなっていなかった3人の娘が、流感にかかり、枕を並べてねていたので、その頭を冷やす雪をとるためであった。

  その冬はおそくなって、2度大雪が降った。庭には、ことに隣家さかいの植込みのかげに、雪が真白に残っていた。私は庭下駄のままその上にしゃがみこみ、片手で雪を玉に握りかためながら、水枕の中へ入れだした。

風のない穏やかな夕方であったが、さすがに雪の上は冷たく、それを掴む手の痛かったのを覚えている。やっと枕をつめ終わると、私は腰をのばして立ち上がった。その時である。

  日が落ちて間はなかったけれど、空気はいつしかしっとりして、心もちかすんでいた。その空気を通して、黄色に染まった茜の空が、やや煙って望まれた。私の庭には、小さいながら、松の木が多かった。その幹が他の庭樹の中にまじって、ひときわ黒く、赤い空の地映っており、沈んだばかりの太陽の余照が、その間に幾条も矢のような光線を流している。−立って腰をのした瞬間はこの景色にとらえられた。私ははっと息を呑む思いで、えも言われぬ色調に眼をみはった。

  あたりは実に静かであった。そよとの大気の動きもなく、しかも、裸の木々は、枝先が思いなしかふくらんで、柔らかい生気を吐いている。そして天地に遍満する早春の気が、じかに肌にふれてくる思いであった。私は、覚えず「ああ!」と喚声を洩らした。森羅万象の美しさが、この時ほど身に沁みて感じられたことはなかった。

  しかし私は、気がせいていた。子供のことが気になるので、いつか機械的に歩き出しながら、これが今日みたいな時でなく、もっとゆとりのある気持で、こうした感銘を楽しむことができたらどのなによかろう−こんなことを考えた。子供たちがなおったら、もう一度ゆっくりこの景色を味わいなおそう−このなふうにも考えたのだったが、これはしかし私の不覚であった。人間のことは何事もそう単純なものではないらしい。

  その時まで私は、季節では秋が一番好きであった。それが、この時以来、早春の夕べのよさというものを、それにもまして愛するようになった。とはいえ、その時覚えた深い感銘は、その後は一度も味わったことがない。、、、、、、、、、、」

  中村白葉は昭和46年に「ここまで生きてきて−私の80年」という随筆集を上梓 し、長年のロシヤ文学の翻訳による功績で、昭和48年に芸術院会員に推挙された。その時、初めて世田谷の桜新町の自宅でその謦咳に接した。

  「早春の譜」に紹介されている庭を前にして、明治の文学者、田山花袋、前田夕暮、志賀直哉、夏目漱石など同時代の人々をある種の懐かしさを持って語られた。その表情は永遠の文学青年の眼差しであった。80歳を過ぎても明治の書生の面影を残して、その純粋さと誠実さを目の当たりして感銘深かった。

  この随筆集は既に購っていたのであるが、サイン入りの本を小生に進呈された。その味わい深い筆致も鮮やかにその時の筆の運び方は今も鮮明に蘇って来る。

  中村白葉は二葉亭四迷、米川正夫と共に我が国にロシヤ文学を翻訳し、紹介したその功績は大きい。トルストイ、ドストエフスキイ、チエホフらの全作品を読めるのは、ロシヤを除くと我が国だけである。明治、大正、昭和、平成の読書人がロシヤ文学から受けた影響は計り知れない。

  中村白葉は昭和49年の8月、長野の夏期大学での講義中に急逝された。それから27年の歳月が過ぎているが、現在生きているとすれば、110歳になる。

せいちゃん  
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