忘年会のあとさき


  紫陽花倶楽部の忘年会は3時開会なのに、例会の習性で1時のつもりで早めに行ってしまった。始まるまで間があったから目睫の東慶寺境内を散策することにした。誰の墓を掃苔するといった目的もなしに、漫歩するのも悪くない。悪くないどころか、いつか暮れの昼下がりに寺を飄然と歩いて見たいと、心の中でひそかに思っていた。それが極自然にそうした機会に恵まれたのである。

  これから2時間後に、和気藹藹とした小宴が始まる前に、ここに眠っている人々のありし日の風姿や一生を通して、研究した成果や作品を読んだ時の事を脳裏に蘇えらせながら、段状の墓域を一巡するのは一種の静謐な喜びを味わうことに他ならない。
  盛り場でのパ−テ−に出席するのに、一寸時間がある時など画廊に立寄って好きな画家の絵の前に立って、心ゆくまで鑑賞するひとときにも似た感じである。

  鎌倉の神社仏閣の参拝客や観光客が少ないのは、真夏の8月と12月の押し詰まった頃である。この日も三々五々訪れる観光客と写真を撮りに来た若い人たちだけで、シ−ズン中のような人出がないので、存分にもの静かな境内のたたずまいに身を置くことができた。

  こうして足の赴くままに東慶寺のささやかな山門を潜った。石畳を踏みしめて、本堂の前まで来るとその庭前に紅葉が鮮やかに一面散り敷かれていた。目にした瞬間あツと息をのんだ。色々の角度からカメラに収めようとして、しゃっタ−を切っている人がいた。

  奥の墓域に入いってみると、黄葉が木漏れ日に照らされ、空中を乱舞しながら、澄み潤っている小径や墓石に振り注ぐさまは得も言われない光景であった。立ち尽くして仰ぎ見ていると「会下の友想えば銀杏黄落す」が思わず口をついて出てきた。時折森の上空を渡る鳥の鳴声が谷戸にこだまして如何にも、初冬の閑寂を感じさせる。

  この谷戸に隣接している浄智寺の背後には、小津安二郎の晩年の旧居がある。小津監督の12月12日の命日が過ぎたばかりである。谷戸のトンネルをくぐって坂道を上がった純日本風の山荘は小倉遊亀の持ち家であった。一目見てすっかり気に入った小津安二郎に、遊亀は小津監督ならと言って譲る。生涯独身であった小津安二郎はそれまで大船松竹撮影所内の寮にいたが、これを期に母親と晩年の10年を水入らずの生活をした。コタツに入っていかにも満ち足りたといった親子の写真があるが、最も至福の時期のものである。

  酒友の里見 とんが、小津が遺体となって病院からこの自宅に戻って来た時、門前で待ち受けて、「酒を飲んだ後、深夜になり互いに送って来たり、送られてきたりした、デコボコの坂道に差し掛かった時、不覚にも落涙した」としるしていた。あれから、37年の歳月が流れている。

  この東慶寺の境内程、近代日本の文化に貢献した学者や文化人のおきつきが多いのも珍しい。
  中川善之助の墓は、書物を開いた形をかたどり、民法の父、中川善之助とあり、その墓の横にその教え子ら400名ほどの建碑者の名が刻されている。中川善之助は、東北大で長らく教鞭を執ったが、定年後は学習院大で教えたことがある。
  西田幾太郎も、京大の後晩年、鈴木大拙の縁で学習院の教壇に立っている。その墓は岩波茂雄の隣にある。西田幾太郎が死去した時、大拙は慟哭して友情溢れる弔辞を寄せている。

  中で最も参拝客が多いのは、高見 順であろう。小高い墓域の一隅に手帳が具えられてある。そのペ−ジを括ってみると、高見 順の詩の愛読者と思える女性が特に多い。中には高見 順の同世代の作家の娘などの名が見える。
  この手帳には読者の高見 順に対する思いが綴られている。それが既に数冊の本として刊行されている。手帳が収められいる小鳥小屋風の「ポスト」は、高見 順が死後作られ、長年の風雨に晒されたので、境内を掃除している人が好意で造ったものである。

  鈴木大拙の墓の前に行った。私が最初に東慶寺に訪れた時には、まだ大拙が本堂の裏手にある「松が岡文庫」で学究生活を送っていた。34年前の真夏、ワゴン車に和漢洋の書籍を満載して軽井沢に行く矢先に忽然とこの世を去った。その日は暑い日であったことを覚えている。

  鈴木大拙の師は釈 宗演であるが、夏目漱石が26歳頃一週間程恋愛に関連した人生問題に悩みを懐いて、円覚寺の帰源院に参禅したことがあった。その時の老師が釈 宗演である。大拙は後年釈 宗演に随伴して、渡米し在米中に禅の普及に努め、世界的宗教家になった。晩年、同時代に修業した漱石の禅について問われて、「いくら、漱石が頭脳明晰であっても、一週間では禅は極められないよ」と答えて呵呵大笑した。

  大拙の夫人(アメリカ人)の墓に、朱文字で鈴木大拙と刻されていたのが、当時印象に残っていた。大拙は戦時中、食料不足でとりわけ肉が自由に手に入らず、夫人が口にしたがって閉口したことを書いている。
  その二人の間の一人息子が作詞家の鈴木 勝で、「ボタンとリボン」の池 真理子と結婚したが、一人娘を残して、夭逝してしまった。そんな事情で、池 真理子は「松が岡文庫」で、舅の鈴木大拙と同じ屋根の下に暮らしたことがある。池真理子は「おとうさんは、真里さん、真里さんと言って可愛がってくれた」と大拙の一面を回想している。

  今度久し振りに詣でて見たら、鈴木大拙夫妻の墓石の後に、出光某の卒塔婆が立っていた。そして小道を挟んだ横に出光左三夫妻の墓があった。
  あれ、以前にはなかったので、出光と鈴木大拙とはどういう関係なのかしらと思って、しばし佇んでいると、三人の初老の男性がやって来て、大拙の墓の前で立ち止まり、そのうちの一人が、なにやら説明し始めた。
  説明を終ったのを見計らって、出光某と鈴木大拙は如何なる関係があるのか問うてみた。

  周知のように、同郷の安宅弥吉が「松ヶ岡文庫」はじめ、鈴木大拙の研究のためにパトロンとなって、巨額の資金を出して協力した。そのため境内には大拙の筆による安宅弥吉の遺徳を顕彰するする公徳碑が建立されている。
  安宅産業がカナダの石油事業の投資に失敗しそれがもとで倒産した後、松ヶ岡文庫の管理、維持は出光石油の創業者、出光左三が引き継いで、資金援助してきた。しかし出光左三亡き後はその長男が継続して父親の遺志を受け継いでいる。正に陰徳である。出光石油はその社員を大事にすること教育に力を入れていることで知られ、労働組合がなく家族的会社としても独特な会社である。
  この説明してくれた人の従兄弟が、出光左三の長男と友人であるところから、このことを知っているのだという。


  忘年会が終った翌日の18日に、90歳の母親が自宅の玄関先で、転倒し、鎌倉湘南記念病院に急遽入院、大腿骨骨折と診断された。血圧、脈拍ともに正常であったが、炎症をおこしているので一週間後に手術をする運びとなった。幸い手術そのものは一応成功した。1月の8日には抜糸し、その後の経過はまず良好である。だがこれから、待ち受けている難関はリハビリである。
  なにせ高齢であるから、どこまでリハビリに堪えられるか気がかりであり、予断を許さない。
  もし老人が転んで、骨折して手術が出来ないと大抵の場合は、寝たきりになってしまい、以後の看護が大変であるのが火を見るより明らかである。そうした最悪の事態だけはどうやら、今のところ免れることができた。不幸中の幸いと思って天佑としなければならない。

  30日の夜に、妹の夫が死去したとの電話があった。発病の時数ヶ月と診断されたのが、2年4ヵ月延命した。血液のガンであった。12月の初めに、医師から年を越せないと予め家族に言い渡されていた。本人は、途中で気がついていたかどうか知る由もないが、神経質なので最初から、最後まで病名を伏せていた。家族はその事で、治療に幾分でもガンに効く薬を服用させるのに苦心した。最初に告知すればよかったか否か悩み通した。享年68歳。

  義弟は、横川電気の技術部門にいてコンピュ−タ−に早くから関心があった。従って、小生は義弟から手ほどきを受けたのである。最初は分らないところがあると、家にやってきて教えて呉れた。又いつでも、電話で聞くことが出来たので随分助かった。
  入退院を繰り返すこと10回、あれ程好きだったコンピュ−タ−にも触れることがなくなっていった。所謂会社戦士で、機械をいじるのが趣味であったが、病のために人間が見違える程に変貌してしまった。それでも退院して気分が良い時には、コンピュ−タ−を弄くって気を紛らわせるのが唯一の慰藉であった。

  小生がかって紫陽花倶楽部のことを話したことがあった。すると、一度見学したいと言っていたのが今も耳朶に残っている。住んでいるのが保谷市だから、距離的に遠く体力的に無理なのでついに一度も顔を出さず終った。
  本来なら、小生よりも義弟の方が、紫陽花倶楽部の会員に相応しいのであるが、それも叶わぬ夢と化した。コンピュ−タ−に限らず、機械類に目がなく、なんでも新しい製品が出ると手に入れるのが道楽であり、生甲斐でもあった。
  だからコンピュ−タ−も性能が劣悪で高価な時代に購入し、ノ−トパソコンが発売になると、逸早く手に入れるといった具合であった。

  義弟は昨年の夏、小康状態の折り、自宅に来たいと言って発病以来2年振りにやってきた。その時はなかなか帰ろうとしなかった。妹に「もう遅くなるから」と促され、やっと重い腰をあげるといった具合であった。その時なんとなく、義母に最後の別れに来たのではないか、そしてこれが今生の永別ではあるまいか、という漠とした不吉な予感がした。それが不幸にも的中してしまった。
  今こうしてパソコンのキ−ボ−ドに触れていると、いっしょに画面を見つめていた在りし日の義弟の横顔が思い浮かんで来る。

  生憎、正月にぶつかったので、遺体は葬儀場の冷却室に保管された。3日が通夜、4日が告別式であった。友人代表が生前の個人を偲んで、弔辞を読んでくれたが、途中で感極まって絶句してしまった。それが小生の堪えていた涙を誘って、ハンケチをポケットから取り出させた。それに続いて甥が会葬者に挨拶をした時、32年前に生まれた赤子が、こんなになったかと、改めて歳月の長さに思い至ったのである。

  4日の告別式に続いて桐ケ谷の火葬場に行ったら、年末、正月に死んだ人々が荼毘にふされるので火葬場はいっぱいであった。死者は日にちを選ばない。
  「去年今年貫く棒の如きもの」という年が妹の家でも我が家でも長い間続いたが、それが今年は一変した。

せいちゃん  
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