ある映画監督の死


小野田元少尉がルパング島から30年ぶりに帰還した後、好きな女性のタイプはと問われて、「水戸光子みたいなひと」と答えた。小野田さんらが青春時代に評判を呼んだのが映画「暖流」(1939)で、人気を二分したのが、病院長の令嬢役の高峰三枝子と看護婦役の水戸光子であった。「暖流」は満を持した吉村公三郎監督作品第一作。その吉村監督が11月7日、89歳で亡くなった。

「暖流」は朝日新聞に連載された岸田国士の小説を映画化したもので、私立病院再建に乗り込んでくる青年実業家日疋祐三(佐分利 信)をめぐって、病院の令嬢志摩啓子と看護婦石渡ぎんの愛の葛藤を描いたものである。

この作品は当初、吉村公三郎の師匠の島津保次郎監督が、「兄とその妹」の後撮る予定だった。だが島津監督が松竹を退社し、東宝に移籍したので、当時助監督の吉村公三郎にお鉢が回って来たのである。島津監督が去った後、佐分利 信と高峰三枝子の出演は決まっていたが、監督は未定であったので、城戸四郎大船撮影所長へ高峰三枝子が推薦したことから吉村公三郎に決まったのである。

吉村公三郎は、島津監督の全作品に助監督としてついたのであるが、その中の作品「朱と緑」、「婚約三羽烏」で高峰三枝子の都会的で理知的な美しさを引き出されるのを目の当たりにした。

島津は頑固で、短気ですぐ怒鳴ったりするが、一日の仕事が終ると、そんなことはすっかり忘れて、スタッフを引き連れて銀座に繰り出すといった監督であった。東宝に移籍した島津監督に発掘された池部 良は、監督の複雑な人間性を折りに触れ書いている。吉村公三郎は助監督で5年島津監督の下で働いた。

従って、高峰三枝子はクセのある島津監督の下で、助監督時代の吉村公三郎の資質と人となりを知っていることから、推薦したのである。

「暖流」の監督に器用された28歳の吉村公三郎は、看護婦の石渡ぎん役に田中絹代か三宅邦子を器用したいと、城戸四郎に申し出たところ、「大スタ−を二人も使ってこれ以上何をいう、水戸光子でやれ」と一喝されてしまった。「いやです」と言うと「それなら、やめろ」と言われて、泣く泣く水戸光子に決める。

水戸光子にその旨伝え、「きみに「暖流」のおぎん役が出来る?」という吉村公三郎に「あら、困ちゃうわ」という。そこでその水戸光子に撮影前に特訓をした結果、瑞々しい演技で立派に役をこなす。 封切られると、知的な令嬢役の高峰か、つつましい、けなげな水戸光子かと映画フアンは寄るとさわると話題にした。そして水戸光子と言えば「暖流」というイメ−ジがその後長くつきまとうことになるのである。

「暖流」は1939年に封切られ、その年のキネマ旬報7位にランクされた。戦時色が次第に濃厚になって来て、文芸作品が少なくなり、戦意高揚を謳う映画が、人気を呼ぶ時代になっていく中で、こうした恋愛映画が、ベストテンの仲間入りしていることは庶民の気持の一端を表しているといえよう。

1943年に召集され、ビルマに行った吉村公三郎が復員してきて、1947年に作ったのが、「象を食った連中」である。戦争直後の食料難の時に、ビフテキを食ったはいいが、それは象の肉だったと明かされ、これを食べた後は24時間のうちに命取りになるというので、大騒ぎになる。奇抜な着想のコメデ−である。

当時、題名が風変わりなのにつられて見て、面白いと思ったが、食べた5人のうちでも笠 智衆の印象が強かった。

戦後の貴族の崩壊と新興勢力の台頭を描いた「安城家の舞踏会」(1947年)によって、この年のキネマ旬報第一位に選ばれた。この映画は封切り当時見なかったので、後年、フイルムライブラリ−が京橋の近代美術館にあった時に、吉村の回顧展で見たのであるが、終った同時に拍手をした経験がある。「桜の園」の日本版ともいうべき作品である。

そのころはビデオは勿論ない時代なので、無声映画や内外の古典的作品は、ここでなければ、鑑賞出来なかったのである。フランスの「シネマテ−クフランセ−ズ」を模倣して開館されたフイルムライブラリ−は200人程の収容の理想的な会場であった。であるから、映画愛好家、大学の映研の学生、映画評論家や俳優、及びその関係者が観客であった。小津安二郎の弟の信三さんが、小津映画の回顧展にはよく来ていたのが目をひいた。そのころの信三さんは小津安二郎の晩年にそっくりで、小津安二郎がいて、自分の映画を見ているのではないかと思わせる雰囲気であった。

吉村公三郎は「わが生涯のかがやける日」(1948)、「森の石松」(1949)、「偽れる盛装」(1950)と連続してベストテン入りを果たしている。この期間が吉村公三郎のピ−クであった。

1950年に「偽れる盛装」を最後に脚本家の新藤兼人とコンビの解消を会社側から迫られたことから、二人は「近代映画協会」を設立して松竹を離れる

博学、多芸であることから、色々な映画を作っている。行く所可ならざるはなしと言った時代であった。「自由学校」、「千羽鶴」、「足摺岬」などの文芸映画、京都に長期滞在していたことから「夜の川」などで、山本富士子の京都弁の美しさを見せてくれた。又「夜の蝶」で現代の風俗を描き、ホステスの代名詞に使われるほど評判の作品を作った。

吉村公三郎は映画監督の余技として、新聞や雑誌に寄稿したり、朝日新聞の夕刊に長年に亙って、常連の定期寄稿者であった。その頃に載った新聞の随筆に次のような一文はなぜか忘れられない。

ある時ラフな監督のスタイルでホテルの食堂に入ったら、ボ−イから「ネクタイを」と言われた。「じゃ、毛沢東が来てもそう言うのかね」と言ってやったとは当時のこの人らしい言動である。若い頃、社会主義者に共鳴し、築地小劇場に出入りし小林多喜二や立野信之らとの交流があった。自由主義者であるから、形式的なものを忌避することがこの人の身上である。

1963年に脳卒中で倒れた。1966年には奇跡的カンバックを遂げ、福島県のPTAが出した資金で、「こころの山脈」を撮ったことで当時話題になった。教育の問題をとりあげて、キネマ旬報8位に入った。74年には胃潰瘍の大手術をしたが、その後田中正造を描く「襤褸の旗」を撮って意欲的なところを見せた。

1990年に高峰三枝子が死去した時、「暖流」で共演した徳大寺 伸とその追悼番組に出演して往時を懐かしんでいたのが思い浮かぶ。かっての堂々たる体躯は、細身の枯淡の老紳士になっていた。以前は雄弁で、講演では自信たっぷりに一時間でも二時間でも話をしたとは信じられないような変貌であった。

メガホンをとれなくとも、この人には筆があった。食通であったことから、晩年は食べ物の本や影像関係の本を上梓して、往年の吉村フアンには活字を通して、最後まで繋がりがあった。映画斜陽期には、映画監督は自由契約となり、会社も制作本数を逓減し、テレビで活躍の場を見出そうとしたり、映画と無関係の仕事に転職したりして、不遇なうちに死去した監督も少なくない。

吉村公三郎は最晩年、映画人生を振返って、進藤兼人と「近代映画協会」を創立し、新藤兼人の才能はその後の作品によって証明されたと新聞に書いていたのを読んだのが最後であった。

「暖流」は一部鎌倉山を舞台にしていることから、[Report from Kamakura]の「名作に登場する鎌倉、藤沢」に「暖流」を掲載した。するとこの四月に一通のメ−ルが入っていた。

メ−ルの主は70半ばの東京に住む会社役員からのものであった。それによると、小生のHPの「暖流」を読んで、青春時代に見た映画「暖流」を忽然と思いだした。その頃婚約していた女性と一緒に銀座の映画館で見て、感動した。その隣で見ていた彼女の頬にひと筋の涙が流れているのを見て、感性が同じであることを確認した。その後、彼女と結婚し、随分沢山の映画や演劇を見た。自分らの結婚は決して恵まれたスタ−トではなかったが、趣味が同じであったから、生活が苦しくとも映画をみたり、観劇したりして、楽しい思い出が多い。その妻も数年前に他界して、今は一人暮らし。「暖流」はリメ−クで2度程上映されたが、最初の吉村公三郎監督のがやはりいい、と言った内容のものであった。

松竹大船撮影所が蒲田撮影所から移って来たのは、1936年である。吉村公三郎はこの年に両親を亡くしている。今年の夏、60年間、数々の名作を生んだ大船撮影所が閉鎖された。そして大船撮影所の開所当日のことを知っている監督の最後の人が吉村公三郎ではないか。映画の盛衰を見てこの世を去った吉村公三郎の死を悼む。

せいちゃん  
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