下帯を売った若者のその後?


ある夏の日、一人の若者が、懐中に無一文で人家のまばらな田舎道をとぼとぼ歩いていた。夏の暑い太陽は容赦なく、その若者を照りつけ、このところ碌な食べ物にありつけなかった。目眩がして今にも倒れそうになっていた。正に進退極まった状態であった。

すると一軒のガラクタが並べてある古道具屋の前に差し掛かった。いかにも気難しそうな親爺が煙管くわえて、表をにらんでいた。だが、これ以上歩けそうもないので、フラフラと店内に入った。

「何か用か?」と親爺はいかにも胡散臭そうに訊ねた。
「腹は減ったし、金はなし、、、、」と若者はふらつく足をやっと堪えながら弱々しく微笑した。親爺は眼鏡越しに若者をジロジロと見回していたが、やがて
「ここは道具屋じゃ。何でもよい。買おう。売るものはないか」と、ぶっきら棒にいう。

売る物などある筈がないのは、見れば分かるはず、この因業な親爺奴、、、、、、とかっと腹が立ったが、背に腹は換えられずここで、ひと思案した。この若者はこれまでにも、人生の苦境に立たされると妙案が浮かぶ才に恵まれていた。

若者はクルリと後ろ向きになると、帯をといて六尺褌を外し、振り向くやそれを親爺の眼の先につきつけた。
「売るものはこれだけだ。これを買ってもらいましょう」

若者は半ば喧嘩腰で、どうとでもなれと思っての態度に出た。ところが、意外や意外親爺は眉毛一つ動かさず、平然と
「古褌か、よしかってやろう。そこえ置いてゆけ」と言って、天保銭を一枚だして、若者に渡したのであった。

この若者こそは第13世将棋名人 関根金次郎の若き日のひとコマである。後年、当時を回想して次のように述懐している。

「その天保銭で焼芋を買ってたらふく食ったが、焼芋を食いながらわしは涙がでそうだったよ。道具屋のキップに打たれてネ。売るものはないかといわれた時には向っ腹が立ったが、親爺としては金をただやれば相手は乞食、古褌でも買えばお客、よい若者を乞食扱いにして後でイヤな思いをさせたくなかったんだろう。田舎にも出来た人間がいるものだと、それからわしは田舎者だからといって決して馬鹿にしなくなったよ」

関根金次郎は明治元年に千葉県東葛飾郡三川村の東宝珠花に生まれた。父親は農業をするかたわら、ソロバンを教えていた。だが旅人の老人を親切にしたことから、お灸の秘伝を教わりそれを生業にするようになった。

ここは将棋の盛んなところで、金次郎は子供の頃将棋を覚えたので、小学校に上がっても、勉強はせず将棋ばかりに夢中になって両親を困らせた。このままでは不良になってしまうことを恐れて、両親は金次郎を躾の厳しい商家に奉公にだした。だが一年の中に10軒近くもかわると言った具合で小僧もつとまらない。それもすべて将棋のことが何時も頭から離れなかったからである。商家の小僧は勤まらなくとも、将棋小僧として田舎では知られるようになっていた。

12才頃になると、金次郎の周辺では敵うものは無いほどに腕が上がった。意を決して上京し、誰の紹介状を持たずに本所(現墨田区)相生町の11世名人 伊藤宗印師の門を叩いた。

その頃は棋界の最も衰微していた時代であった。徳川幕府が瓦解しなければ、将棋所名人として隆盛を誇っていられたものであるが、金次郎が訪れた時にはその屋敷も近所の長屋と大して変わらない質素なものであった。

金次郎は初対面の宗印師に幾分改まって
「先生に将棋を教えて頂きたくて参上しました」
「ほほう、お前さんが、、、、、」
いくら今は落魄の身であれ、天下の名人に紹介状もないぽっと出の少年の申し出に、あきれ返ってしまった。

宗印師は前名、上野房次郎、幕末に在野派の棟梁、天野宗歩を向こうに廻して闘った家元派随一の闘将。50歳前後の棋界に聞こえた美男であった。

この時三枚落(飛、角香落)で二番あっさり負けて、金次郎は最初の意気込みはすっかり消し飛んでしまった。筋はいいが、独力の悲しさ、我流で定跡に疎かったのが敗因であった。

宗印師は、あどけない金次郎少年の顔を見て、不憫に思い三番は金次郎に花を持たせてやった。
「お前さんは見どころがある。これからもたゆまず修業を積めば、必ず後世に名を成す立派な将棋指しになるだろう。勉強するんだよ」
丁度昼時になったので、食事をご馳走になり帰りしなに日本将棋有段者番附を手土産に貰った。
「今に出世しましたら、キットこのご恩返しをいたします」と落涙せんばかりに、宗印 師の家を辞した。

これが、師弟の契りである。名伯楽の宗印師に出会ったことが、その後の将棋人生にどれだけプラスであったか計り知れない。人生の幸運な出会いというべきであろう。

12歳から15歳まで金次郎は将棋会所歩きをしながら、食いつないでいた。15歳で専門棋士の2段の実力を持っていた。17歳の夏に昔の武者修行もどきに将棋の修業の旅に出た。冒頭の記述はその時の体験談である。

金次郎は修業の階梯を一歩一歩上っていく過程でも、師のアドバイスを忠実に墨守して、全国を巡歴した。

当時は全国にその土地に将棋好きの旦那衆がいた。そうしてそう言う将棋好きと勝負して、一宿一飯にありついたのである。

その頃の将棋さしは、世間から極道者のすることと見做されていたから、旅から旅と渡り歩いていて、将棋好きの金持ちに出会えばいいがそうでもない時には、蕎麦屋の出前持ちになったり、牡蠣わり職人に臨時に雇ってもらったりして、糊口を凌いだものである。

金次郎は、一度は役者となって舞台に上がったこともあった。

芭蕉が奥の細道を初め、全国旅したのは行く先々に俳聖の指導を仰ぐ地方の俳人が、散在していたことである。俳句に限らず、漢詩の添削をしながら、江戸時代の漢詩人が地方行脚している。明治時代の中葉には浪漫主義派の作家や評論家の中には、地方に講演に出かけたり、地方の新聞社に籍を置いたりして、活路を見出したものである。

24歳の時に金次郎は宗印師の添状を持って大阪の関西の名人と称される小林東伯斎師のもとを訪れ、手合せをする。角落ちで敗北を期してしまうが、東伯斎は「勝負度胸といい手筋といい得難いものじゃ。宗印先生は、よいお弟子を持たれた」とその場に居合わした人々に聞こえるように言った。

明治27年金次郎は、旅先で宗印師の訃報を聞く。その落胆ぶりは想像以上のものであった。師のいない東京に帰る気がせず数年四国、関西を渡り歩いた。

ある時こんは熾烈な戦いが展開した。金次郎は東京の将棋会所で、石川友次郎に負けた。その雪辱を晴らすために行方の知られない友次郎を追った。一方金次郎に負けた村社浅吉が、金次郎を追うという三角関係になる。偶然に木更津で鉢合わせになる。三人は決着をつけるために死闘を繰り広げる。5日間の不眠不休の鬼気迫る異様な雰囲気に、宿屋の女中は食事を運んでいくのを怖がった程である。

明治半ばには、実際の敵討ちは消滅していたが、将棋の上では行われていたことがこれでわかる。金次郎も昔の敵討ちの心境が判ると言った。

後年金次郎は初めて宗印師に会った時、子供心に感じたのは日本でたった一人の名人が、このような暮らし向きでいいのだろうか。将棋界を盛んにしよう。将棋さしが世間から敬われるようにしたい。そう心がけることが宗印師にたいする恩返しに繋がると思ったと語っている。

関根金次郎が、54歳で名人位についてからまもなく、これまでの各派を合体して日本将棋連盟が、結成された。そして昭和10年に突如引退を表明して周囲を驚かした。その理由は終生名人制の廃しと実力名人戦の創設である。ここに日本の近代将棋の名人が誕生することになった。

関根金次郎が、家元、大橋宗金から八段の最高位を与えられたのは明治38年、それまでは小野五平翁が12世名人だった。小野12世名人が死去して、実力のある金次郎が13世名人になったのは54歳。その間20年間待たなければならなかった。その時には、関根金次郎の実力は盛りは過ぎていた。

そのことがあって、実力名人戦を断行することに踏み切ったのである。棋界の長い伝統を破って新制度にを提唱したことについて、関根名人は棋界の隆盛のためにやったことで、もし間違っていたら、罰として地獄の責苦を受ける覚悟であるとその決意のほどが窺える。

14世名人木村義雄は関根金次郎の愛弟子であるが、人間的な面でも色々教わるところが多かった。

終戦の翌年の昭和21年3月に郷里東宝珠花で78歳の生涯を終えた。その臨終は古木が倒れるごとく、眠るが如く穏やかな大往生であったという。その墓の傍には、三十五歳で死んだライバルであり、莫逆の友でもある石川友次郎7段の碑が立っている。関根金次郎は、石川友次郎七段がもし長生きしていたら、名人になったであろうことを惜しんで、生前に自分の墓域に建碑して、偲んだものである。

人呼んで関根金次郎を日本の近代将棋の父と言う。

将棋評論家として将棋ファンに長らく観戦記を執筆して親しまれた倉島竹二郎は、その晩年の風貌を白髭の十徳姿は茶の湯か生け花の宗匠といった風流人の趣があった。今後どれほどの実力者抜群の名人が出ても、関根翁のような風格の名人は絶対現れないだろう。楽天的で打算心がなく、そして人情味の濃やかなおおらかな風格、これは明治の大御代が生んだ性格の一つで現代にこれを求めるのは、求める方が無理かもしれないと手放しで絶賛している。

この倉島竹二郎は茅屋から程近い、腰越の神戸(ごうど)に長年住んでいたが、10数年前に他界した。その前は腰越−大船間の県道が通っていて、それに沿って神戸(ごうど)川が流れ、美しい田園風景が眺められたと記したのは、戦後まもなく倉島宅からス−プの覚めない距離に仮寓した郷土史家の木村彦三郎である。

せいちゃん  
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