生田長江と佐藤春夫


  35年前に鎌倉の長谷観音に参詣に行った折りのことである。まだそのころは、今程善男善女や観光客が多くなく、境内も人影も疎らであった。当時は長谷観音に通じる沿道脇に高山ちょ牛の旧居が存在していたが、昭和58年2月に取り壊され、現在は見ることは出来ない。

  本堂の前の境内の片隅に、久米正雄の胸像があった。勿論今もある。漱石の長女筆子が、松岡 譲と結婚することによって、久米正雄は失恋し「破船」等一連の失恋物を描いて立ち直り、判官びいきも手伝って人気作家になった。しかし、ここに顕彰されているのは、久米正雄が鎌倉カーニバルを創案したり、鎌倉文庫などで鎌倉市民のために貢献したことによるものである。

  参拝客は否応無しに久米正雄の胸像に向き合うことになるが、その奥の山懐にある墓地を訪れる人は、墓参りの遺族であり、観光客は今も昔も足を運ぶのは稀である。

  何気なく石段を上って寺域に入って行った。中段の左の所に、生田長江の御影石の墓と佐藤春夫の碑文が偶然目に止まった。その時初めて生田長江がここに眠っていることを知った。

 「居士ハ明治一五年三月二十一日鳥取県日野郡雨町ニ生ル。長江ト号シ、簡潔ノ筆ニ高邁ノ志ヲ述ベ、俗論ヲ弾劾スルモノ多年、孤高ヲ楽シムガ如シ。夙にフリイドリッヒニイチエヲ喜ビ、ソノ全集ヲ移植セシモ、晩年深ク釈尊ニ帰依シ、コレガ立伝ヲ発願シ、業将ニ成ラントシテ、昭和十一年一月十一日東京渋谷区代々木山谷町三百十四番地ニ没ス。寿五十五歳。妻藤尾ハ亀田氏也。門人 佐藤春夫 撰併書」

  明治42年、佐藤春夫が新宮中学5年生の時町内で開催された文芸講演会に、生田長江、与謝野鉄幹、石井栢亭が講演に来た。多感な春夫は長江の講演を聞いて感激した。18歳の時上京して3日目に当時千駄木林町の長江の家を訪れる。そしてそれ以後長江は春夫にとって終生の師となった。

  その頃、長江邸は「超人社」との看板を掲げ、ニイチエ全集の翻訳をしていて、文壇の梁山泊の趣を呈していた。森田草平、生田春月、中村武羅夫、船木邦之助、藤沢清造らが出入りしていた。

  佐藤春夫は18歳から21歳まで慶応義塾を中退するまでの青春を謳歌した。「若き二十のころなれや、三年がほどはかよひしも 酒、歌、煙草、また女 外に学びしこともなし 孤蝶、秋骨、はた薫 荷風が見ることが やがて我等をはげまして よき教ともなりしのみ」と追憶している。そしてこの頃生涯の友、堀口大学と巡り合う。

  生田長江は青踏社の顧問格であったことから、「青踏」の末期に知人の画家の娘が、長江邸に出入りするようになった。その妹と春夫は一年半の交際をした。長江夫妻がなにかと蔭になり日向になって、二人の間を取り持つ。長江が月下氷人を買って出たが、ついに実を結ばなかった。相手は適齢期を迎えていて、世間的にも経済的にも安定している某画家と婚約する。

  春夫は、その時の心境を言う。相手は一家をなした画人であり、花嫁の厳君も認めているに反して、自分は少しも進級しないなまけ学生で、まだ発揮しないその稀有の詩才などを誰が信用しょうか。春夫自身信じていないのであると告白している。なんの憤怒もなく、とは言え、悲愁が絶無であった訳ではなかった。

  その人のために学校の卒業ぐらいはと思って残しておいたが、その機会に退学を決意して、故山の海や山を見るために旅に出た。そして、その結果出来たのが、自他ともに若き日の春夫の代表作の一つ「ためいき」である。

 「紀の国の五月なかばは 椎の木のくらき下かげ うす濁るながれのほとり 野うばらの花のひとむれ 人知れず白くさくなり たたずみてもの思う目に 小さなるなみだもろげの すなほなる花をし視れば恋びとのためいきを聴くここちするかな、、、、、、、、」

  時変わり、34余年後、森鴎外のかっての住居、千駄木の観潮楼が焼失した跡に森鴎外記念館が完成した。その落成式に、昔の恋人の娘が、今は森鴎外の三男の類の妻となって、春夫の前に「母がよろしくと申しております」と言って名乗り上げる。その後、改めて春夫夫妻とかっての恋人とその娘夫妻が再会を果たす。

  佐藤春夫は30余年後のこの再会の歓びは他の何人よりも生田長江夫妻に頒ち伝えるべきである。事毎に先師を思い出すものは必ずしも乏しくなかったが、この時ほど切実なのも稀であった。しかし夫妻は春夫の20代の末に、長江は春夫の40代のはじめに世を去っていた。

  生田長江は人格よりも才能を愛した文学者であった。佐藤春夫はそうした長江の価値観に叶っていたことから、早くから無名の抒情詩人、春夫の才能を発掘し励ました。若き日の春夫は、無頼で、非常識であった。長江と同居していた時、友人が訪ねて来た折りなど、勝手に酒屋から酒を取り寄せ、長江のつけにしておくなど気ままに振る舞っていた。後でそのことを知っても長江は一言も文句は言わなかった。

  生田長江は幼い頃に、仏壇や神棚を礼拝する父親の手伝いをしながら、灯明や神酒の手伝いをしたことが宗教的閲歴に少なからず影響を及ぼしていると記している。

  20歳頃、清沢満之の書物を読んで大いに感化を受けた。同級生の森田草平らと文学を真面目にやってみようと回覧雑誌を発行する。栗原古城に伴われて、馬場孤蝶に初めて会い、その後色々指導を受け、言語に絶する恩寵を受けた。森田草平と一緒に与謝野鉄幹宅に赴く。その後「美文」や「論文」誌上に折々執筆。この頃、上田敏の紹介状を携えて、坪内逍遥に会う。長江のペンネ−ムは上田敏の命名である。

  東大の文学部哲学科で、ケ−ベル、村上専精、森かい南、姉崎正治の講義を聴く。またイギリスから帰朝した夏目漱石の講義に出席した。

  明治40年、26歳の時亀田藤尾と結婚して、東京千駄ヶ谷の与謝野 寛の隣に引っ越してくる。与謝野晶子に英語の手ほどきをする。英語教師として成美女学校に赴任する。その校内に馬場孤蝶らと共に与謝野晶子を中心に閨秀文学会が出来、講師には長江、相馬御風、森田草平があたり、その聴講生に平塚らいてうや山川菊江がいた。これが機縁で、草平と平塚らいてうが恋愛関係に陥る。その顛末を草平は「煤煙」に書き、その中で長江は神戸の名で登場する。

  明治42年5月、ニイチエの「ツアラトウストラ」の翻訳にとりかかる。一年有半ばかりというものはこれに没頭する。その合間に漱石、鴎外、花袋、藤村、秋声の作家論を執筆。

  大正4年から昭和4年まで20年近い年月をかけてニイチエ全集を完訳して新潮社から発行された。さらに昭和10年、11年にわたって新約決定普及版が日本評論社から発行された。

  大正6年6月に妻藤尾は5歳のまり子を残して病没。生前藤尾は死んだら、海の見えるところに埋めて欲しいとの願いから長谷観音の裏山に納骨。長江は「白躑躅」と題してその悲しみを詠っている。

 「まり子よ、おんみが母は、 おんみ、五つの年六月九日、咲き残りし白躑躅の 音もなく夕闇におつるごとく 我等をあとにして果敢なくなりぬ いとせめて、この悲しさを、 いつまでも、いつまでも忘れたまうな。 母なき子としてそだつおんみはせめて かの初夏の白き花に向いて 不覚にも我が太息つくことあらば まり子よ、おんみもおんみの母の かなしき、白き躑躅を思ひ出でたまへ」

  この年「新小説」に「国際戦の将来」という時論を発表している。日本が日清、日露、第一次世界大戦と勝利に酔っている時、これからの国際戦は、列強間の国際戦は結末のつきにくい残虐なものになって、その開始が躊躇されるとして「武」から「文」的なものに近くなっていく。階級戦では無産者労働階級が勢力を得て非軍国主義的なものになっていく−という平和論を提唱した。当時こうした考えは卓見であり、先見の眼があったと言うべきであろう。

 同年8月、堺利彦のすすめで雑誌「中外」創刊号にはじめての創作三幕物の戯曲「円光」を執筆。「中外」7月号に長江は「文壇に推奨したいひと」として佐藤春夫をあげ、「天才」があるとした。そして9月号に「田園の憂鬱」を発表して文壇に登場する。

  長江は学生時代から評論を書き、死の直前まで続けられ一貫して大胆で他に憚るところなく、単刀直入、時代に先んじて新しい問題提起しそれが流行時代に入ると、皮肉と逆説を投げつけるという−時代より一歩前を歩む評論家であることに誇と自信をもっていた。そして創作をやろうと思えば創作もやれる、学問をやろうとすれば学問もやれる。これが批評家の批評家たるべき完全な資格者だと言う意味を自ら立証しようとした。

  この頃から「青い花」、「環境」、「落花の如く」の作品を通して運命の力や運命の悲しさを描くようになっていく。

  大正7年3月に堺利彦が、代議士に立候補した際に長江は数箇所で応援演説をしたが、当時は臨監の警官の中止命令を巧みな弁舌でかわし、その場にいた聴衆を感心させた。

  6月に「円光」を久米正雄が舞台監督となって国民座という劇団に上演される。

  大正8年賀川豊彦にすすめられて、堺利彦と共に京阪地方に友愛会主催の社会問題講演会に招かれて講演する。この年、長江は21歳の無名の早熟青年、島田清次郎の「地上」の第一部を新潮社に紹介する。出版と同時にベストセ−ラ−になり、島田清次郎は一躍文壇に躍り出た。

  大正12年9月1日の関東大震災で、上六番町の自宅、蔵書の大部分と日記、写真の重要なものを焼失する。大正14年に評論集「超時代派宣言」を出し、「商業主義よりも重農主義を、都会よりも村落を、文明よりも文化を、西洋よりも東洋を学び取ろうとする−これは超時代的である」と超近代主義を提唱した。

  大正14年9月東京を引上げて、鎌倉長谷稲瀬川16に転居したが、長江の業病はかなり悪くなっていた。住居は海に近い松林の中にあって、門を一歩出てふり返ると、妻の藤尾が永眠している長谷観音の茅葺きの大きな堂宇や海光山が見えた。散歩好きな長江は不自由な足に草履を履いて、助けられながら、由比ガ浜に出たり、ある時は長谷観音にまで出かけたりした。曲がり曲がって30いく段の石段を登って観音堂の前に、疲れた身体を休めながら、震災で傾きかけた大伽藍を仰ぎ見たり、眼下に見える鎌倉の町や紺碧のはるか先に、うす紫に浮く大島に見とれることもあった。

 「過去50年近い生涯において、いかなる場合にも女性そのものを軽蔑したり、宗教そのものを否定したりする気持ちになり得なかった第一の原因は、恐らくはあんな申し分のない母を与えられた幸運に存するであろう」と言わしめたその母が、大正15年の8月に死去した。

  昭和2年、仏教的家庭に育ち、青年時代から高山ちょ牛の一元論や清沢満之の「精神界」によって仏教書に親しんできたが、ここに来て、悲しみを諦らめその諦らめの後に悲哀からも解き放たれることの出きる仏教の救いに、新しい悟りの道を開いた。そして「釈尊」の創作に発展していく。

  伝第一部「小公子」を発表する。執筆以外の雑事は、長女まり子があたり、執筆に専念し、「釈尊伝」の外に雑誌や新聞に評論を発表した。

  昭和8年には壮絶な精神的戦いを経て、病気で日常生活もままならないのに、強靭な精神によって宗教の絶対的境地に到達した。昭和9年には第二部の「愛欲篇」以後は、失明し、口述筆記で「明治大正時代文学再検討の検討」という文学評論を発表。

  昭和10年1月に「釈尊伝」上巻が完成、これから本筋に入ろうという矢先に、1月11日に永眠。「釈尊伝」は完結をみないで終った。

  告別式は14日、今は孤児となったまり子が喪主となって本郷赤門前の喜福寺で執り行なわれた。門人の佐藤春夫はその霊前に未定稿の詩を献じた。

 「苦しみて苦しみて 古のヨブよりなほくるしみて いきたまひける師の大人は。うつそみのまなこもあらで 光明をこころに抱き

  人みなをあわれと仰せ 身を泣かず人を怨みず。こころやさしき猛者なれば 神仏などは言はで 知慧のまにまに 生きたまひけり み霊日々にかがやきながら(一句未成、略)苦しみて苦しみて 生きたまひける五十五年。苦しみて苦しみて 人みなはなほ生きでやは とぞ師の大人は 身を以って教へたまひぬ。み教へはさはにあれども たまきはる命もて教へたまひし み教へぞいとも尊き。」

  生田長江の遺骨は又再び鎌倉長谷観音に眠る妻藤尾のもとに帰ってきた。

  今春久し振りに長江夫妻の墓に詣でたが、かってははっきり読み取れた春夫の碑文も多年の風雪に晒されて、判読がかなわない程に摩滅していた。勿論その寺域に新しい墓石があちこちに散見れるが、今も昔のままの閑寂なたたずまいであった。時折鶯の鳴き声が周囲の山に木霊して聞こえるだけである。

  今手許に二葉の写真がある。一葉は昭和31年1月11日、生田長江二十周忌の供養に集う人たちの写真である。場所は長谷寺慈光殿。生田章、堀口大学、佐藤春夫、伊福部隆彦、村松正俊、小牧、木村彦三郎、飯塚友一郎等の顔が写っている。だがこうした長江に縁のあった人々も今は皆鬼籍に入っている。

  もう一葉は高田博厚が制作した春夫の肖像である。高田博厚は、渡仏する前の極貧時代に、春夫邸を訪れたことを回想している。ある時、高田博厚は、援助を申し込むに中々切り出せないでいると、春夫は「君、この本を処分してくれませんか」と口篭もって傍らにあった分厚い英書数冊を差し出した。その後高田博厚は滞仏30年の間、時々思い出して春夫の一面に触れた思いがしたと言う。

せいちゃん  
前号